やっと訪れた秋がビルの隙間を抜けて空間を冷やす。東北は肩を竦めて華奢な背中をじっと見た。自分から声を掛けなければ、彼は自分の存在に気付いているのに永遠に振り向かないように思えた。
「随分と機嫌良さそうだな」
軽口を叩くと一言の冗談も許さない険しい顔つきで、上越が振り向いた。東北は無表情で唾を飲み込んで、上越のまっすぐな目を見つめ返す。
タイミングを間違えたかもしれない、と思う。そして、正しいタイミングなど自分と上越の間には訪れないことを思い出す。
「君こそ。どうしたの、油売ってないで持ち場に戻ったら」
「お前もな」
「……」
目を逸らして、次々と東京駅に入ってくる新幹線に移す。上越は東北の言葉には何も応えずに柵に頬杖をついていた。
業務をこなしていないことではなくて東北がこの場にいることを嫌がった、上越の言葉に東北が気付いていないわけはなかった。けれど東北は何も気付いていない顔をして上越の隣にいる。上越にはそれが気に入らなかった。数分置きに入ってくるだけ、車両の方がまだマシだと思う、どんどん速度を上げていく目障りなはやて。それがこの男だと思うと上越はどうしても微笑む気にはなれないのだった。
長野に対する態度を大人げないと東北は言う、でも実際には自分の方が大人げない態度を取られているはずなのに、そのことには東北は何の文句も言わない。
どうして、と訊ねたくなる。訊ねたら負けな気がする。上越は確かめないままそうして密やかな優越感に浸る。
―――君はいつも僕にだけ優しい。
「…なに」
「……」
「言いたいことがあるなら言いなよ。聞くから、ほら」
命令口調染みた言い方で、目だけは合わせる。人の話を聞く態度ではない。しかたなさそうに、上越は東北を促す。東北が眉間に皺を寄せると上越はそれを面白がった。嬉しそうに、口元を緩める。
「怒った?」
「…ガキ」
東北が低い声で呟く、上越は赤面する。東北はたまにこうして、高慢な振る舞いをする上越に好きにさせた後、冷水を浴びせかけるように素っ気なく軽蔑の眼差しを向ける。上越はその度に、真に受けて動揺して一瞬黙る。自分を甘やかしてくれるはずの相手が冷たい態度を取ると上越は怯えた。
「ふ」
そこで東北が笑いを洩らす。上越は文句を言いたそうに両手を握りしめてうつむいた。
「ほんっと気に入らない。君のそういう態度」
「お互い様だろう」
「ねぇ、薄々気付いてたんだけどやっぱり喧嘩しに来たの?」
「いや。誕生日おめでとう」
東北があっさり言ってのけた言葉に上越は拍子抜けしたのか、目を丸くした。
「…それを言いに?」
「おかしいか?」
「おかしいよ、なんでわざわざ」
そう言いつつもさっきまでの仏頂面はすっかり消えて、鉄柵に肘をついて新幹線を見下ろす上越は楽しげだった。東北はそれをじっと見つめる。
口笛でも吹くように、上越の唇が薄く開く。きゅ、と結ぶ。風に目を細めて髪がなびく。東北は静かにその仕草に目を奪われていた。目を離せずに見つめていた。
さらさらと流れる黒髪が美しい。切ってしまえばいいのに、と思う。もし切ったら自分はひどく落胆する。一日部屋から出て来なくなってしまうかもしれない。首を隠す長さの髪が揺れて肌を掠める。その髪に触れてみたくて気が狂いそうになるときがある。長い睫毛を合わせたままの顔を正面から見つめていたい。
自分の眸のシャッターも切らずに東北は口元を隠した。今口を開かなければ自分は何も言えなくなると思った。
「秋田に八つ当たりするなよ、文句は言いたい相手に言え」
「……」
上越は何か言いたげに東北を見つめた。東北は上越の視線に動揺しそうな自分を隠そうとして目を逸らす。
「優しいね」
上越は寂しそうに笑って東北から離れる、東北を置き去りにしてビルに戻って行こうとする。
「たった半年で、年上振らないでよ」
東北は手を伸ばして、その手で何も掴まないまま下ろした。
降りしきる雪の中で消えてしまいそうな笑顔だった。上越は自分の気持ちを何も知らない。お前が秋田に嫉妬するところなんか見たくなかった、見たいはずがないじゃないか。
山陽と二人きりで顔を寄せ合って話す秋田に辛く当たる上越を自分は視界に入れたくない。認めたくない。そんな今更なことに気付かされて恥ずかしさで死にたくなった。
捕まえられなくて良かった、捕まえることができてしまっていたら、おそらく自分はすべて打ち明けてしまっていた。自分の言葉なんか上越は欲しがっていない。誕生日を祝われることは自分の存在を肯定されることとよく似ている。上越が肯定されたいのは、ただ、山陽にだけなのだった。自分とは反対側、西を走る遠い路線に、憧れと愛情を抱いている。隣には自分がいるというのに。
以前、本社の役員に声を掛けられているのを見たことがある。肩にのせられた手を拒絶も受け入れもせず、口元だけ緩めて笑う彼は人を、期待させたままあしらうことに馴れていた。
「上越せんぱいっ! お昼ご飯食べました?」
目をキラキラ輝かせて、新潟から戻ってきたばかりの上越の足元に纏わりつく、長野を見ていると自分は微笑ましさと皮肉りたい気持ちが綯い交ぜになって押し寄せてくる。混乱しかける。
―――少食でロクに飯も食わない上越を、誘ったって断られるだけだっての。
子どもの特権は自分の視界で起こる出来事のうち、見たいものだけを見て見たくないものは見ずにいても、誰からも咎められずにいられることなのかもしれない。自分にもそれだけの自由があれば、そう思うのは目の前の子どもを羨ましいと思っているからなのか、それともただ自分の子どもの頃を後悔しているだけなのか。結局自分の目の前には、遠くから戻ってきたばかりで疲れているに違いない上越を誘うことはできないという現実が転がっているのだった。そしてその足元から目を逸らしたい。
「まだ、だよ」
一瞬黙った後の上越の目は優しかった。隣で見ている自分でさえ優しさに気付くくらいだった。部下との付き合いには分かりやすく目に見える線を引く。コンクリートの上にまっすぐに白い線を引く。その前に立った人間が、その線はどこまでも続くのだとひとりでに理解して諦めるのを待つように。
高崎をからかうことはしても優しい顔はしない、宇都宮を快く思っていなくてもそれ以上干渉しない。それどころか、どこか楽しんでいる風ですらある、自虐的に。
同僚との付き合いなら、もっと分かりやすかった。
弱みを見せず、強がることもなく、誰よりも冷静に犠牲を最小限に留めることに細心の注意を払いながら関係を紡いでいく。大雪で新潟発のダイヤが乱れても、システムトラブルで運行がストップしても、彼は自分にできることだけを速やかに実行して、他人ができることを渋ろうものなら柔らかく、それを遂行するように仕向ける。彼だからこそ許されることを、彼は指先一つで終わらす。
在来線の振り替えを渋る東海道に正論で言うことを聞かせるのも、無言の東北を連れていくのも、いつも上越の役目だった。上越は汗一つかかないが、本当はどちらも至難の業だ。自分は先に口を開くだけで何もしない、対岸の火事を見守っている。
「一緒に食べに行きませんか? 先輩のこと待ってたんです」
長野の言葉は直球だった。今日が何の日かを考えれば、長野が何をしようとしているのかはすぐ分かった。子どもの、とても子どもらしい誘い方だった。人に理由のある特別扱いをされたり、期待されるのが大嫌いな上越に自分はそんなことは言えなかった。それがただ見た目が可愛らしい、美しい、立場が上、などといった形式的かつ客観的な理由であれば上越は当然の顔で受け取った。それが愛情や信頼といった好意からくるものだと気付いたとき、上越はそれを遠ざける、山陽はこれまでそう思ってきた。
「あー…うん」
上越は了承して席を立った。
驚いている間もなく、二人は連れ立って外に出ていく。呆然とする。たかが子どものしたことに、自分は本気で困惑している。長野が上越を独占する。こっちを向かない上越と、嬉しそうにはしゃぐ長野。自分が二人に感じているのは単なる苛立ちではなかった。
「二人で行くの?」
肩越しに聴こえる上越の声、振り向きたいのを堪えた。仮に名前を呼ばれたところで、自分はすぐには振り向けない。
「誰か誘いますか?」
上越が何と答えたかは分からなかった。二人が部屋を出て行ってしまったということは、そういうことなのだろう。
机に突っ伏していると、長野の言葉が耳の中で何度も反響した。
「はーお腹いっぱい! え、どうしたの山陽」
休憩から戻ってきた秋田が屈んで、顔を出した山陽の顔を覗き込む。
「信号の故障でもあった?」
「…なんでー?」
「指名手配犯みたいな顔してるわよ、こんな顔東京駅に貼られてたわ」
「そんな分かりやすい説明要らない…」
死にそうな声を出す山陽に、秋田はこれ以上言葉を掛けづらそうにした。山陽の席を離れて行ってしまった秋田を待たずに、山陽は虚ろな目で曇った空をぼんやり見つめる。
戻ってきた秋田が山陽の視界をコーヒーの入ったマグカップで塞いだ。
「今年も結局渡してないの?」
「だってあいつ受け取らない」
「渡したこともないくせに」
コーヒーを飲みながら秋田は机に腰掛けて、何も考えていなさそうな顔をして山陽を見下ろしていた。山陽は秋田を見上げて、
「あるよ、何度も」
「なに?」
「あったかそうな手袋。肌触りのよいマフラー、きれいな色のセーター。時計、指輪、車、それから…」
「途中から嘘でしょ」
山陽は、はは、と笑って身体を起こしてマグカップを持ち上げた。いただきます、と言うと秋田はどうぞ、と上品な言い方をする。
「分かる気がするけどな、あの子の気持ちも」
「ほんと?分かるの?」
緩く笑ってコーヒーを飲みながら、伏し目がちに訊く山陽に秋田は思わず赤面しそうになる。甘えた口調も突き放した態度も淡い色をした綺麗な眸も、目の前の人間をどうしようもなく緊張させるのに、山陽本人はそれを自覚していない。山陽だけが。
「教えてよ」
誤魔化すように溜息を吐いた秋田を、山陽は冷やかすように笑った。
「ごめんね」
「そういう顔を誰にでもするところが、」
カタン、と音がしてドアが開く。部屋に入ってきた上越はいつも通りの顔をして微笑んでいた。
「どうしたの、二人とも怖い顔して」
上越が、苦笑いのように、片眉を上げて笑う。秋田がさっと青ざめて、上越と入れ替わるようにして部屋を出ていく。上越の後ろに立っていた長野が秋田を振り向いて、秋田先輩、と小さい声で呼んだ。
上越は山陽と目を合わさない。自分のデスクの引き出しを開けると、中に入っていたものを取り出した。
「長野」
「はい」
「おいで、お礼あげる」
長野に向かって歩いて行って、渡したものが何だったのか、山陽には見当もつかない。自分が受け取ってもらえないものを長野は受け取ってもらえたのだろうか、そう思うと胸が焼かれそうに熱くなった。眼差しだけ冷めている、耳を塞ぐのを我慢して心を鎖す。上越はソファに座ってテレビの電源をつけた。
「ありがとうございます」
お礼を言っている長野の顔が見えなくて良かった、心からそう思った。
「だまるのってずるいよね」
目の前で眉間に皺を寄せる、彼の普段の行動こそずるいという形容詞がぴたりと当てはまるというのに、当の本人は自分がずるいなどとは微塵も思っていない様子だから不思議だ。人の振り見てわが振り直せ、と格言をここで呈しても彼は聴こえなかった振りをするだけなのだろう、あるいは、「今はそういう話をしているんじゃないよ」と眉間の皺をさらに深くするか。
しかし結局、相手が自分に愚痴を言うのをやめさせたいわけじゃない、東北は上越の顔をじっと見つめる。その言葉が誰に向けて発せられたものなのか、ここにいる自分なのか、あるいはここにいない誰かに対してなのか、―――判別がつかないまま、黙って言葉の続きを待った。
午前には全員揃っていたはずの部屋には既に、2人しか残っていない。一番早くてあと1時間で、長野が戻ってくることになっていた。
「ちょっと。何か言いなよ」
「何を言えばいいんだ」
空になった上越のティーカップにお茶を注ぎ、ポットを置くと上越が一瞬目を丸くした。嬉しくも悲しくもないが、ただ驚いただけのような顔をして。
萩の月のパッケージを開けると、その驚いた顔をした上越と目が合った。何も考えずに萩の月を差し出すと、正気に戻ったように、
「いい」
と不貞腐れた子どものような顔をして自分の分の袋を開ける。
甘いものが大好きな彼が食べる前から文句を言っているのは珍しかった。よっぽど腹に据え兼ねているのか、それなら自分ではなく本人を呼び出して言えば良いものを、なぜ彼はそうしないのだろう。
生来のプライドの高さゆえか、自分にそうする権利がないと思っているのか、あるいはもっと別の。
「……」
「お前だって黙るんじゃないか」
ふっと視線を逸らして、口もとから笑いがこぼれた。
意地悪を言うつもりは毛頭なかった。本音を言うなら、自分にはいっさいの非がないと本気で考えていそうな彼を、問い詰めてみたかったのだけれど。
他の誰の前でも饒舌で意地っ張りで理詰めの反論を得意とする彼が自分の前では少しだけ大人しくなる。
「理由を訊いているのに黙られたら、その先の会話が続かないじゃない。“黙れ”って言ってるのと同じだよ」
無口な男と付き合っているおしゃべりな女の子の恋愛相談か、あるいは無口な上司と上手くいかない部下の愚痴か。自分が付き合っているのはそのどちらだろうと思いながら、上越に文句を言われる前に会話を繋いだ。
「お前は何を訊いたんだ?」
「別に。昨日の夜何してたの、って訊いただけ」
最後まで言い終える前に視線を逸らすから、つい追いかけてしまう、その先を。飲みかけのティーカップの中身、濃淡のあるオレンジ色を見つめて震える彼の指先に気付いた。
「言えないようなことをしてたってことか」
思い切り傷ついた顔をされて、(傷つけられた、と訴えかけられるような顔だったのかもしれなかった)、その顔に、言わなければ良かった、と後悔させられる。傷つける気はなかった、傷つけたくなかった気持ちと、この言葉で傷つくことを知りたくなかった、身勝手な気持ちがないまぜになって、この先の言葉が見つからない。上越に比べて自分に傷つく権利はない。
お前は何度も人を黙らせてきただろう、勝気なくせに泣きそうに笑う顔、よく透る澄んだ声、仕草や表情、ただそこにいるだけで同じ空間にいる人間をはっとさせるくせに。彼の、目の前の人間が口を噤むことなど誰にも咎める権利がないと思えた。
人が黙るのは、これ以上何も知りたくないからだ、知って、これ以上傷つく勇気がないから。だから静かに、会話を終わらせてしまう。二の句が継げない自分がその証明だ。
「上司と食事に出てただけ、って、」
彼が昨晩何をしていたか尋ねた後、そう答えた本人に追及したか、あるいはせずに黙りこんだか、そのどちらなのかは分からなかった。どちらもあり得るような気がした。追及する上越はいつものように、気にしていない振りで何気なく訊ねるのだろう。何も言えない上越は、その一言で実際の昨晩の出来事を想定して口を閉ざしたのだろう。―――そっか。そう言って、相手に何も求めずに心も一緒に閉ざす上越が目に浮かぶ。
恋人の浮気に気付かない振りをする女のように自分を守って、何べんも見慣れた包み紙に苦い食べ物を包むように。好きだという気持ちと同じくらい頑丈に、疑って、信じられなくなりそうな気持ちを隠す上越に、どう接したら良いか分からなかった。澄んだ眸をして自分を見つめる上越が、本当に、彼を信じているのかも。
「あいつがそう言うなら、そうなんだろう」
目の前の人間の望む言葉を口にすることしかできない自分はこの上なくみっともない。いっそ、その上司の性別と行き先、証拠をすべて並べて叩きつけて彼の顔が悲しみと嫉妬に歪むのを見届けて、そうして、―――。
できるはずのないことを思い浮かべた。あいつ、という言葉に彼が何か言いたげに見つめてくるのを、正面から見つめ返す。
喧嘩のあとでこうして自分にすがりついてくる彼を慰めるのは嫌いじゃなかった。彼のこの弱さと葛藤が、いつか自分のものになってしまえばいいのに。そんな叶わない思慕を抱いて見つめる、そうすると彼が、いっそう美しく見えるのだった。
( 俺ならそんな嘘は、つかないのに )
意味のない誓いを立てて瞬きをする。目を開けた後、彼との出会いからやり直せたとしたら、自分は始めに何を言うだろう、と考えた。
山陽←上越
君の~→ 僕だけ~→ これ
右脚に残る鈍い痛みは眠気をますます酷くした。客がざわめき立つホームで孤独を味わうのは嫌いじゃなかった。ときを見送って溜息を吐く。右足を半歩、前に進めて眉を顰める。まったく、砂利の上に着地なんかするものじゃない。のろのろと重い足を上官室に向けた。
「今日の夜、予定入ってる?」
「なに?」
「きりたんぽもらったからうちで鍋しようと思って。来れる?」
秋田の誘いに一瞬だけ考えた。顔を上げて秋田の顔を見ていると精神的には落ち着いた。
「――ありがと」
「来るってこと?」
「ああ、ごめん。ちょっとやらないといけないことがあって、行けないんだけど」
礼を言いたくなって口にした言葉はどうやら紛らわしかったらしい、どうも自分は言葉の使い方が上手くない。残念ね、と呟く秋田に口元が緩む。
――――――いいんだよ、放っておいて。
優しさに癒されて、同じくらい優しくできる人間を僻んでいる。僕もそんな風になりたい。
*
文庫本を片手にソファに寝そべっていると部屋のインターホンが鳴った。読みかけの本を閉じようとして、テーブルの上の栞を取った。途端にすべてが面倒臭くなって、本は栞を挟まれないまま、繰ったページを忘れさせられる。ソファに埋もれて音が聴こえない振りを続けていると、今度は乱暴なノックに変わった。時計の短針は10を差している、こんな時間に来ただけでなく騒がしいなんて、非常識な来客には怒りしか湧いてこない。鉛のように重い躰を起こしてドアを開けた。
「誰」
「よ」
山陽を前にして、どんな顔をしていいか分からなくなる。多分僕はよっぽど間抜けな顔をしていたんだろう、山陽が、僕を誤解させようとしてるみたいな優しい顔で笑う。
「寝起き?」
「違うよ」
「久しぶりに人を見たような顔してるな」
そう言って山陽は部屋に入って来ようとした。僕が避けないのに山陽は強引だ。大体、久しぶりに人を見たって?毎日飽きるほどホームで視ている、何万、何十万、何千万の人間を輸送して、そんなことを言われるのは心外だった。
山陽の言葉がもっと違う意味で、たとえば自分が人と認識するもの――を指しているのだとしたら、答えを考え直さなければならないけれど。
「どういう意味?」
「上越、ここ座れ」
「ねえ、ここを誰の部屋だと思ってるの?」
相変わらず人の話を聞いていない。突然何の約束もなしに夜中に人の部屋に上がり込んでおいて、山陽は自分に命令してくる。不愉快にならないわけがない、まずは理由を教えて欲しい。今この場で何がしたいのか、何をしに来たのか、自分にどんな権利があると思ってソファに座れと命令したのか。
睨みつけても山陽はしゃがんで、怯むどころか何のダメージも受けていない軽薄な笑みを浮かべて見上げてくる。
「いいからほら、わがままは後にして座りなさい」
「……」
腕を組んで山陽を見下ろす。これ以上拒絶をすれば力任せに言うことを聞かされるのだろうか、そうなれば今の自分に勝ち目はない。損得勘定を済ませると、明後日の方向に息を吐いてソファに腰を下ろした。
「いつ気付いたの」
自分の投げ出した脚に手を伸ばし、山陽は靴下を脱がす。山陽は自分を見上げて目を合わせてから、逸らす。その所作に僕は胸騒ぎを覚えて、この男の思う壺にはまっているような気がして悔しくなる。見るならずっと見ていて欲しい、そうされたら鬱陶しいと思えるのに。こんな風に見つめられて目を逸らされると、次に自分を見るのはいつだろうと自然、目で追う。自分の部屋なのに居心地が悪くなる。
「とっとと戻れって追い返されて、ああ、見られたくないもんでもあんのかなって」
「なくたって戻れって言うよ、君があの場にいても無駄じゃない」
山陽が持ってきた湿布はひやりとして気持ちが良かった。足首の腫れをすぐにでも回復させてくれるんじゃないか。もしかすると、見た目に腫れているだけで、もう立ち上がっても痛みなんか感じないんじゃないか、そう思わせた。実際に立ち上がるほど自分は愚かではないのだけれど。
戻れと追い返した理由を山陽に見透かされたのかもしれない、足を捻ったことなんて知られたくなかった。第一、知らせたところで何になるって言うんだ。痛みが早く引くわけでもなし、余計な心配を掛けて、周囲の荷物になって――、そのくらいなら誰にも知られないでいる方がずっとマシだ。それに、もしも誰にも心配されなかったらどうする?そんなことどうでもいいと言わんばかりの眼差しで見つめられて耐えられるほど、自分の心臓は強くない。
「そんなに俺は頼りないか」
山陽が自分の脚を見つめて、溜息を吐くように呟く。僕は何も答えない、何も言う必要がないからだ。山陽は本心では自分を頼りないなんて思っていないし、僕に頼られなかったところで山陽に利はあれど不利益がないのは目に見えている。自分のような依存心の強い人間に僅かでも魅入られたら不幸だ。自分以外の、たとえば東海道や秋田に頼りにされている山陽が、自分に頼られたいと考えているはずがない。
「ま、いいけど。痛い?」
「別に」
「こんだけ腫らしといてか」
好きで腫れさせたんじゃない、そう言おうとして、まるで怪我をした後の子どもの言い訳のようで口を噤んだ。手当をされているせいか、山陽の指先が優しく自分の足を撫でるせいか、会話を長引かせるためのわがままな言葉ばかりが頭に浮かぶ。かわす言葉が浮かんでこない。まるで、どこかに落としてきてしまったみたいに、山陽をはぐらかす言葉が見つからない。
本当はずっと前からそうだった気もする。東海道に愚痴を言ったり、東北に車両をねだってみたり、秋田や山形と世間話をしたり長野を可愛がることはできるけれど、山陽の前でだけ僕は上手く話せない。始めはたくさんあったはずの言葉が、迷っているうちにいつのまにか消えていって、拾うものがなくなってしまう。最後には自分の躰だけが真っ白い雪の中に残される。
山陽に見つめられるとそんな風に、口を利けなくなる。自分が自分じゃなくなっていくみたいで、僕はひたすらに怯えている。見つめられた部分から、躰が創りかえられていくみたいに、自分の躰じゃなくなっていく。足首、脛、腿、ああ、もう駄目だ。
「さっきまでは腫れてなかったよ」
これは本当、少なくとも就業時間まではここまで腫れていなかった。今では踝を赤く染めているけれど。
山陽は丁寧に包帯を巻いてくれる。指先が僕の脚の周りを天体のように回転するのを、僕はじっと見つめていた。山陽の指先が、僕はあまり嫌いじゃない。綺麗に整えられた爪を見ていると案外几帳面なんだなと思う。爪の形は花弁のように丸くて薄い桃色をしていて、果物のように甘いのではないかと密かに思っている。
「腫れてるんじゃなくて脚が太くなったとか」
「そう言われると愉快な気分にはなれないね」
山陽のジョークについまともに答えて、眉の垂れさがった顔で笑われて、自分が何を言いたかったのかまた分からなくなる。女でもあるまいし、脚が太いと言われたところで傷つくわけじゃない、自分が感じている不快感の正体を考える。山陽の旋毛を見下ろしながら。彼の茶色い髪にももう随分馴れてしまった。
「冗談だよ、お前は痩せてるから」
「だから、そう言われても微妙」
男が痩せてるだとか脚が細いだとか、躰の部位を褒められたところで――、不満を並べ立てようとして、言いかけた言葉を呑み込んだ。こんなことを言えば、それは、女に言う言葉を持つ山陽を見て、自分の目の前に現れただけでもない女に嫉妬していると吐露するようなものだった。女に向ける言葉を自分に向けるなと、そう言いたい。そんな醜態を晒すくらいならもう二度と山陽と顔を合わさないことを自分は選ぶ。
「できた」
包帯を巻き直してもらうと脚は随分楽になった。山陽はすっと立ち上がって隣に座る。
「……何」
ソファに肘をのせて頬杖ついて自分を見つめる山陽が何を考えているのか、僕には何も分からない。ただ、柔らかいその笑みが、足首以外の自分の傷を癒していくようで、困る。
「無理すんなよ。子どもが落ちたからって、慌てて線路に降りたりしないで、周りに言え」
「見てたようなこと言う」
山陽の口ぶりがなんだかおかしくて笑ってしまった。笑うと、山陽は目を逸らした、その視線の先をつい探ったせいで、視線が戻ってきたとき、まともに目が合ってしまった。
「――ま、見てねーけど」
山陽の眼は、たまに鋭くて、僕は言おうとした言葉を口の中で呟く。
――――――本当は、見てたんじゃないの?
言えるはずがない。そんな痛々しい自惚れを口にして、その後のことを考える。もしも見られていたとしたら、山陽が去った後見送ることもできなかった自分も知られていそうで怖かった。背中を見たらその瞬間に、引き留めてしまいそうだった。置いて行かないで、右脚が痛むんだ、一人にしないで。傍にいて欲しくて自傷したように嘆いていた。あのとき駆け付けたのが山陽でなかったら、自分はもう少し素直になれたのかもしれない。喜んでいない振りなんかせずに済んで、強がる必要もなくて、一緒に上官室に戻れたのかも。そう思うと自分は山陽の傍にいてはいけない気がした。
結果的に今こうして部屋まで訪ねて来てくれたことに、僕はとても満足している。風邪を引いて母親に看病してもらう子どもみたいに、一生治らなくてもいいとさえ思う。それと同時にこの部屋に二人きりでいることに動揺している。カーテンの奥の窓、クローゼットの隙間、本棚の本たちは、僕がこの部屋で何を考えてきたかを知っている。秘密がこぼれてしまわないよう、僕は祈る。
山陽が自分の部屋に一人でやって来たのは初めてで、僕はまだ山陽の部屋を訪ねたことがない。ずるいな、ちっともフェアじゃない。ああでもともかく、部屋を散らかしていなくて良かった。
インターホンがもう一度鳴って、僕は山陽を見つめたままでいた。
「出ねーの?」
「…うん」
今、この場でドアの向こう側の人間を招き入れて二人でいる理由を説明するのは耐えがたかった。東海道や山形はないだろうから、秋田か長野か。秋田が心配して来てくれたのかもしれない。それなら彼の優しさには答えなければと思うのに、脚はぴくりとも動かなかった。山陽に不自然に思われたらどうしようと悩んだが、自分も無視されたせいか山陽は気にしているように見えなかった。
この部屋の空気が乱れるのは嫌だと思った。二人の時間を誰にも邪魔されたくなかった、違う、邪魔されなくたって嫌だ。誰にも、知られることさえしたくない。足首の腫れも胸に広がる甘い動揺も、山陽の軽薄で大雑把な笑い方も、全部、誰にも知られたくない。
「帰ったみたいだな」
山陽が、何の音もしないドアを見て言った。
「普通は帰るんだよ」
インターホンを鳴らして、応答がなければね、と胸の内で付け加える。
「わざわざ探した湿布が無駄になるのは虚しいだろ」
「それはそれは、わざわざどうもありがとう」
山陽の嘘臭い笑顔に同じような笑顔を作る。結局こんなお礼の言い方しか言えない自分の可愛げのなさに絶望する。こんなのお礼を言ったうちにも入らない。空々しい感謝しか口にできない大人、こんなの自分の理想じゃなかった。
山陽が時計をチラ、と見る。
「そろそろ帰るかな」
「そ」
見送ろうとして立ち上がる、山陽と目線がかち合う。
何をしに来たのと二度訊ねた、その理由を彼は知らない。
――――――心配して、僕がいないと不安になって、そしていつか、君なんか、僕がいなければ何もできなくなってしまえばいい。
「さっきの、嘘だからな」
「え?」
部屋を出た山陽は少し、怒ったような顔をしていた。去り際に言われた言葉の意味が、把握できない。さっきのって何?何のこと。そう訊く前に、山陽は歩き出してしまう。追いかけて訊けばいいのか、自分で考えなければいけないことなのか、僕はそれすらも自分では判断がつかなくて、山陽の言葉を思い出そうとした。
湿布をわざわざ探してくれた、本当は見ていた、僕が痩せているかどうか、怪我に気付いたタイミング。どれ?
本当か嘘か分からない言葉をいくら集めても、パズルは完成しなかった。どの言葉も嘘だったらいいのにって思っているせいだ、きっと。