山陽→上越
タイミングを見計らったつもりだった。東海道が部屋を出て行って二人きりになった直後、温度の下がった室内で彼に話しかけた。時間を置けば話しかけられなくなることは分かっていた。
「大丈夫か?」
「―――別に。いつものことだから」
常に一定数の乗客を確保し、JRの根幹であることを自負する東海道にとって、自分のところなどただの古くなった物を置く場所でしかないと上越は悟っていた。それに異を唱えたこともなければ、不満で眉を曇らせることすらしない。自嘲気味に漏らすか、他人に煽られれば空気を壊さないために乗るだけだ、わざとらしく。
これ以上何も話す気もなさそうに結ばれた赤い唇を、山陽はじっと見つめる。デスクの正面に陣取ると、上越は大人しく視線にさらされている。この気まぐれを独り占めできる機会はそうそうない。上越が東海道の言葉を引きずって大人しくしていることを前提にしたって、これは珍しいことだった。東海道が出て行った後、この時間帯だと東北が戻ってくるまでが制限時間。
秋田にでも覗かれれば気の毒そうな顔をされる予想がついた。秋田は多分、自分に同情している。このやるせなさを誰かに知って欲しい気もするが、同じように東北にも同情しているのだと思うと、そう簡単に彼に心を許すわけにもいかなかった。いや、東北には同情していても自分には呆れているだけかもしれない。
こうしていると人形のようだ。言葉を発しない上越は山陽の目に、ただひたすら美しかった。白い額と長い睫毛と切れ長の眼。きれいな色の眸をしている。
赤い唇が思いがけず開いた。
「―――何。」
取りつくシマのない、疑問の形をした拒絶に山陽は条件反射の苦笑いを浮かべる。視線に射抜かれて山陽は戸惑う。見込み違いだ、とっさに言葉が出て来ない。一番上手く言葉を操りたい相手の前ほど上手く話せない自分の話術など何の意味も為さなかった。
「イエ、何でもありません」
相変わらずガードは堅い。自分ごとき、見つめる権利すら与える気はないということか。
山陽は自分の中に棲む諦めに気付いて虚しくなった。これでは上越を笑えない。
「お前んとこの客だって、結構あいつに乗り換えてんのにな?」
気分が滅入らない内に(すでに手遅れかもしれない)上越を慰めようとすると、彼は奇妙な生き物を中傷する眼でこちらを見た。
―――あ、こういうびっくりしてる顔可愛い。
「は?寧ろ弟の方が―――ていうか、在来か地下鉄に乗るんじゃないのみんな」
何を根拠のないことを言っているんだと上越が腹を立てているのが分かる。重要なのは言葉じゃない。
東海道が生真面目という病気なら上越は重度の天然障害だ。自分のような他人を笑顔でやり過ごして、できるだけ距離を取っておきたい人間に慰められてもまだ何も気付かない。気付いてくれない。
東海道に比べて上越は損得勘定が苦手だ。他人の感情が読めないからだ。正確に言うと、自分に向けられた悪意・敵意にはこの上なく敏感で、敬意・好意・それと紙一重の嫉妬には一切反応を示さない。自我のない幼児のように感情の名前を読もうとしない。この男に心を寄せることほどの不幸を今の自分は思いつかなかった。どんなに思っても、報われない。
「なに黙ってんの」
見つめるのは始めから駄目、話しかけるとあしらわれて、黙り込むと眉を顰められる。
自分の駄目っぷりもここまでくると清々しい。山陽は腕を組んで足を組み直して椅子の背に仰け反って、5センチ遠くから上越を見た。瞬きをして目を細めても上越は笑わない。
「いや――…なんつうか、口下手な俺には、何を話したらお前の機嫌がマシになるのか見当もつかなくて」
情けない、惨めだ、恰好悪い。普段は笑い上戸と揶揄される自分が上越の前では肩無しになる。笑うことも笑わせることもできない。するだけ無駄な会話を振る。その理由がお前を笑わせたいからだと言ったらお前はどんな顔をするんだろう。
白旗を降ったつもりが失言に気付いたのは上越に目を逸らされた後。そのときになってやっと、俺は、上越が今まで自分に眼差しを向けていたことに気付く。
こんな風に言われて気持ちが良いわけがない。自分の言葉が結局余計だ、言わなくていいことしか言葉にできない。本当に言いたいことをだんだん、見失ってしまう。言葉を求められていないからだ、おそらく。自分に言葉が求められていれば、俺だって。もっと上手く話せるはずだ。
反省するつもりがいつのまにか自己弁護の繰り返し。何も言えない山陽を、上越はもう見ていなかった。
「ふうん」
つまらなそうに窓の外を見る上越に、山陽はいよいよ虚しくなる。こんなことなら話しかけなきゃよかった、この気位の高いお姫様の機嫌を取ることができる男など、日本中の路線の中で一路線しかいないのだから。
もっと早くに諦めていれば良かった、彼はもうとっくにたった一人を決めている。自分の入り込む区間など一区間も存在していない。
立ち上がって椅子が下がる音が聴こえた。
いっそ顔を挙げたとき、自分の目に彼だけが映らなくなってしまえばいい。そうすればもう、こんな風にらしくなく一人に囚われて思い悩むこともない。同時に生きる意味もなくなってしまうのかもしれないけれど。そう思って目を瞑る。ファックスの音、テレビのニュースが聞こえてくる。
明日の天気は晴れ、明後日は今のところ曇りらしい。運行には影響しない天気が続く。そろそろ受験シーズンだから、天候が崩れないといい。雪の深い路線はもっと大変だ。上越。大丈夫だろうか、近年は積雪量が減って、スキー客が激減しているというけれど―――。
普段の冷たい眼差しを思い浮かべる。何かあると、楽しそうにシャッターを切る姿を思い出す。耳を隠すくらいの長い髪が揺れて、無防備に彼の可愛らしい耳が覗く。あの瞬間が気に入っている。こっちがシャッターを切りたいくらいだ、そんな勇気のない自分は、ただ網膜に焼きつけて―――何度も、夢の中で彼を見る。夢を終わらせるのが惜しくて、けれど眠り続けるわけにもいかなくて、目が覚めて絶望と興奮に落ち込む。触れてもいない夢を見せて、自分に射精させることができるのは彼くらいのものだろう。
目を開けたとき、きっと上越はここにはいない。俺は目を開けることを怖がって、もうない気配を手繰り寄せた。
「おい」
山陽は虚しい妄想に見切りをつけた。こんなところで眠っていると風邪を引く。狸寝入りを警戒して声を掛けた。こいつならやりかねない。上越は服を脱ぐように両腕を挙げて、ん、と甘い息を洩らした。腕が柔らかそうに伸びる。
上越の仕草の壮絶な色気に、山陽は目眩を覚えてふらふらと遠ざかる。狸寝入りではなさそうだ。そこらにあった、誰のものか分からないひざ掛けを拾って上越の腰に掛けようとした手が一瞬止まった。このまま手首を縛り上げてやろうか。上越の身体に誘惑される。右耳の天使が耳元でささやく、こんな無防備な生き物に、お前は何をするつもりなんだ、と。
この年末、上越はよく働いた。28日の天候不良、それを受けて29日のコスモスのデータ切り替えが上手くいかなかったせいで、ただでさえこの時期だけは忙しい上越の仕事が倍増した。近畿地方を走る自分には見えなかったさまざまな苦労があるのだろう。山陽は愛しそうに上越を見下ろしてソファの縁に腰掛けた。雪国を走るせいか陶器のような肌、頬を長い指先で撫ぜる。
指先を、絡め取ってしまいたい。眠っている間しか、自分のものにはならないのだから。
こうしてずっと触れていたい。目が覚めたら君は触れさせてはくれないだろうから。
いっそキスをしてしまいたい、今なら、こんなところで眠るお前が悪いんだと言い返すことも許されるだろうか。
眠っている間にこの左手の小指に赤い糸を結びつけて、自分の小指と繋いだとしたら、彼は何を言うだろう。眉ひとつ動かさずに糸を解き、本当の相手の小指に括りつけるだろうか。自分でも卑怯だと思う。そうでもしなきゃ、彼とつながれない。
想像する、自虐的な自分の目的が見えなくなる。無邪気な寝顔を見つめていればそれだけで幸せになれるのに、どうにも自分はただ幸せではいられない。余計なことばかり考えている。
上越は東海道のことが好きだった。多分、始めから上越は東海道を好きだった。東海道の真面目さや、自分からすれば面倒なだけの熱っぽさを上越はいたく気に入っていた。ひねくれている人間は自分とよく似た人間しか近くに置かないくせに、自分と違う人間に惹かれる。
在来線のなかでは上越は宇都宮を面白がっていた。宇都宮は上越と同じくらいに冷めていた。この仕事に懸ける夢や誇りを、他人の目から隠すことに長けていた。上越は随分前から自分たちの前でそう振る舞った。他人に真意を見せないことが彼の清潔さを形作っていた。それは上越が昔受けた屈辱のせいだったのだろう。
宇都宮は上越に、上官に対する尊敬以上の感情を抱いている。自分と似た病を患っていることこそ、宇都宮は誇りにしている。上越に声を掛けられたときの宇都宮は、他の人間といるときの彼とは違った。高崎の傍で見せる、小動物を弄ぶときの表情や、自分たちに見せる虎視眈々と下克上を企んでいる眼差しを、上越には一切見せなかった。もっと寛いでいて、柔らかい眼差しだった。いつも何か言いたげだった。自分も同じ顔をしているのだろうな、と山陽は思う。自分も宇都宮も、上越に言いたい言葉をいくつも持っている。
自分が上越を好きなことを上越は知らない。宇都宮の愛情にもきっと気付いていない。上越が見つめるのはいつも東海道だった。東海道だけを目標にして、東海道だけに愛されたがっている。そんなに東海道が大切なのか、といつか正面切って訊いてみたいと思う。お前は、他の全ての路線がなくなっても東海道さえあればいいと思ってやしないか、と。そんなことを訊ねても、自分が惨めになるだけなのだけど。周りを省みない上越の一途さを、守りたいと思うのに、壊すことばかりを考える。
上越の愛情を一身に受けている東海道が心底憎かった。ただ利用者が多いだけではないか。何の苦労もなしに乗客を確保して、年間1兆円を売り上げている。少しの風雨で音を上げて遅延し、人身事故も多い。そのくせ他人を詰るときには自分のことを棚に上げる。上越はなぜそんな東海道に苛立たないのか。
――――――いや、こいつだって苛立ってはいる、けれどそれ以上に。
それから先を言葉にすることはできなくて、山陽は上越を見つめていた。
空気を読まない無遠慮なドアが開く。東海道が入ってきて自分を睨みつけた。山陽は思わず背筋を伸ばす。
「おい、上越」
「んう~?」
「おい、何の誘惑だ」
狭いソファの上で上越が身を捩って東海道を見上げる。虚ろな眼、長い腕を捕まえさせるように伸ばす。東海道の表情が、ともに過ごした朝恋人を見守っているようにしか見えず、山陽は思わず凝視した。二人の顔が異様に近い。
「は?なにいってんの」
上越はすぐに覚醒して東海道を突き放す。東海道は腕を組んだ。
「いいご身分だな、一人で寝こけて」
「乗車率160%だよ、そりゃ疲れもするよ」
東海道の嫌味を上越はものともしない。
「ブランケットかけてくれたの?」
上越は首を傾げて訊ねる。
「ああ」
東海道は山陽を一瞥もせずに頷いた。
――――――俺、なのに。
幸せそうな2人の間に、自分が割り込む隙はない。山陽はこれ以上惨めにならないように笑う。参加していない会話に、参加しているふりをして、声を出さずに表情だけで笑って見せた。上越が山陽にやっと気付く。
「あ、おはよ。山陽のとこ、今日はだいじょぶ?」
昨日のことを覚えていてくれたのだろうか。
もし、そうでなかったとしてもいい。自分を心配して声を掛けてくれただけで、自分の頑張りが認められた気になる。
たったこれだけのことで幸せになってしまう自分はなんて安いのだろう。後ろで東海道がつまらなそうな顔で腕を組んでいる。上越は誰にでも平等に優しい。こうやって、顔を合わせたら気遣ってくれる。本当はそれだけで嬉しい。
「大丈夫ー上越っちゃん優しいな」
「は?優しいとかじゃないんだけど。面倒なんだよね、君んとこで詰まるとさ」
「うーんそういうとこもいい…」
「けっ このドM!」
東海道が不愉快そうに雑言を吐く。
上越に文句を言われて喜んでいる俺がMなら、東海道。お前だってMじゃないか。
――――――2008.12.29 9:00.a.m.
29日の新幹線運行管理ステムのトラブルで、27本が運休、新潟発東京行き「Maxとき310号」の3時間50分を最高に上下線46本が遅れた。通常より15人多く駅員を配置し、早朝から払い戻しの作業に当たる。
昼過ぎまでに一通り終わらせて、上越は鳴り響く電話を取った。
「はい」
「おつかれ。大丈夫か?」
名前も名乗らずにぶっきらぼうに訊いてくる。その声が、事務連絡のためではなくて自分の様子を気にしてかけてくれた電話だということを教えてくれていて、上越は口元を綻ばせた。会議室や廊下で聞く、「おつかれ」や「大丈夫か」の声よりも、電話の声の方が自分だけのものだと思える。こんなとき自分の独占欲の強さを痛感する。東京駅で乗り換える、乗客に感謝しながらも嫉妬してしまいそうになるくらいに。
「だーいじょーぶー」
上越が間延びした声で答えると、東海道は少し笑って、手短に、乗り換えの東京駅の様子を伝える。うん、うん、と上越が頷いて聞く。東海道がふと言葉を止めた。あ、くるな、と上越は座っていたソファに深く腰掛けて背もたれに身を預けた。
「……で」
「ん?」
「損失は?」
「あ、やっぱりそこ訊く?」
天井を見つめながら目の前にいない電話の向こうの相手に笑う。やっぱりね、そろそろ訊かれると思ってたんだ。君ってばこれを訊くために電話を掛けてきたんじゃないの?なんて拗ねても電話越しでは伝わらないと思うので何も言わない。
まあ、お金に厳しい東海らしい。笑う余裕も出てきて、上越はざっと払い戻しと人件費合わせた損失額の見積もりを伝えた。
「ふむ…」
「すみません…」
思わず座り直してしまう、東海道が眉根を寄せて数字をなぞる様子が思い浮かんだ。在来線の人身事故その他、トラブルがあったときにあの顔をよく見る。仕事中以外、たとえば自分と2人きりのときには滅多に見られない顔だ。じゃあ自分と2人きりのときはどんな顔をしているか、考えそうになって上越は首を振った。いけない、今は仕事中だ。
「お前が謝ることじゃない。切るぞ」
「あ、うん」
向こうも仕事が立て込んでいるのだろう、わざわざ電話を掛けてきてくれただけで嬉しい。上越は寂しく思いながらも何も言わなかった。
「あ、待て」
「え?」
電話口で東海道が、えーと、あの、と言いよどんだ。何か言いづらいことだろうか、上越が電話のコードに人指し指を絡ませながら続きの言葉を待っていると、そうだ、と東海道が思い出したように言う。
「キャリーバッグの接触事故には気をつけるように」
――――――2008.12.30 8:00.p.m.
一仕事終えて上越は東京駅に戻ってきた。ちょうどドアを出ようとした山陽との距離が近い。
「お、」
「なに。ちょっと」
「おーこわ。なに怒ってんだよ」
ぶつかりそうになった山陽の胸に手を当てて押し返す。ふざけた山陽がその手を取って上越を壁際に追い詰める。すると廊下の端から、東海道が山陽を指差して走って来た。
「おいこら万年発情電車!何やってんだよ!」
「お前もう出たんじゃなかったのかよ」
「あ、東海道」
「いいから離れろ」
呑気に名前を呼ぶ上越に、東海道は眉を顰める。山陽から上越を引き離して自分の後ろに隠すと、東海道は山陽を睨みつけた。
「忙しい時期に遊ぶな」
「忙しい時期だからこそ癒しが欲しくなるんじゃん?上越といると癒されるんだって」
「ほかを当たれ」
東海道は鋭く言い放ち、上越の顔を見た。突然自分に視線を向けられて、蚊帳の外にいた上越は身構える。
「な、なに……」
「お前も嫌がれ」
本気で嫌いな食べ物を食べた後のような顔をして、東海道は上越に命令する。上越が面くらっていると、東海道はさらに続けた。
「返事は!」
「あ、はい」
まだぶつぶつ文句を言いながら、東海道は部屋を出て行った。上越は閉まったドアをぼんやり眺めている。山陽が暇なときに自分にちょっかいをかけてくるのは今更だった。普段の東海道なら気にもしない。大体、山陽が本気で自分に迫っているならまだしも、ただ構って欲しくてじゃれているだけなのに何をしろと。時間が経つにつれて冷静になってしまう。
どうしたというのだろう、忙しくてイライラしているのだろうか。もういない東海道に、上越は静かに思いを馳せる。山陽はその背後で肩を竦めた。
「分かりやすいやつー独占欲丸出しだな」
山陽の言葉に、こんなことに時間を取られている場合じゃないとはっと我に返った上越はデスクに向かう。溜まった書類をサイドテーブルから持ってきて、肘を突いてページを繰った。さすがに虚しいのか、山陽が後ろにひっついてくる。
「聞いてる?」
「うん?聞いてるけど…なんて言えばいいの」
「あんな器の小さい男より山陽の方がいいなって思い直したらいんじゃね?」
「バカ」
まとわりつく山陽を、東海道の言う通りに、しっしと振り払って上越は仕事を始めた。
――――――2008.12.31 9:09.a.m.
「うわーちょっと勘弁して、マジでやめてくれー!」
一昨日、昨日の大惨事に収集をつけて戻ってきた上越は、早朝の食堂で山陽のパニックに遭遇する。
「どうしたの?」
おそるおそる話しかけると、山陽は上越を振り返った。その表情に上越が怯える、連日の運行で疲れているのか、目が据わっていた。
「乗客2人、立て続けに出発直後にドア開けようとするってありえないだろ!あいつらのぞみをどうしたいんだ!9時5分にこじ開けて降りて、9分にまたこじ開けてって、何がしたいんだよおおお!」
それは確かに気の毒だ。どうせなら最初のときにもう1人も降りてしまえばよかったのだと思うのに、非常識な人間というのは常識を逸脱した行動ばかり取る。合理的に動いてくれない。いや、どちらにしろ非常識なのか?
新幹線発車後の数分は、成人男性の腕力ならばドアを開けることができる。便利なのか不便なのか分からないその仕組みのせいで、こういうことは時たま起こる。
「ま、元気出してよ。ここで愚痴ってても始まらないし」
「もういっそ走らすのやめてやろうか……」
昨日の小田原駅での人身事故でも山陽は被害を受けた。鬱屈が溜まっているのもしかたがない。上越はぽん、と肩を叩いてやる。
「今走るのやめると、もっと大変なことになるよ」
「分かってるっつーの!」
いよいよへこんでいる山陽に、上越は腕を組んで苦笑する。このまま放置しておいたらストライキでもやりかねない。上越は両腕に書類を抱えて山陽に労いの言葉を掛ける。
「事故にならなくてよかったじゃない。ちゃんと防げたなんて、さすが山陽」
甘い言葉を掛けてやると、山陽は上越に抱きついた。
「ちょっと!」
「あー上越っちゃん柔らかい…」
「ふざけたこと言ってるとオロすよ!」
妙なところを触られて、上越は慌てて拒絶した。持っているトレーの中身がひっくり返ったら困る。両腕が塞がっているせいで抵抗しづらい。
「はいはい、東海道に見せたらもったいないからなー」
そう言って山陽はすぐに離れる。上越はますます山陽の意図が分からなかった。自分をからかってどうするつもりなのだろう。言っていることも分からない。東海道に見られたら面倒なことになるのは、山陽の方ではないのか。何がもったいないというのだ。
分からないことづくめで考えるのを止めた。山陽は大人しく仕事に戻ることにしたらしい。
「おつかれさまです、上越上官」
背後から声を掛けられて、上越は密かに動揺した。
「宇都宮。どうかした?」
平静を装って訊くと、宇都宮が書面を読み上げるように滑らかに言った。
「小田原駅の人身事故の件で東海道上官を探しています。どちらにいらっしゃいますか」
「まだ戻ってないけど。急ぎなら、連絡するよう伝えておくよ。具体的には?」
東海道本人から訊いたわけではないが、人身事故の情報は入ってきていた。上越は宇都宮に続きを促す。
「どうやら訴訟は難しそうです」
「うん」
「被害者はブラジル人元派遣労働者。身寄りもない」
「そうか…困ったな」
賠償が取れればいいというものでもないが、責任の所在を明確に出来なければその点でも責任を問われる。明確にしたところで金も身寄りもない人間からは何も取れないのだ。膨大な損害補償だけがかさむ。
「日本社会への抗議かもしれませんね」
鋭い非難を口にする宇都宮が楽しげに思えた。在来線が自分たちをよく思っていないことを、上越はよく知っている。年末やお盆の繁盛期にこう立て続けにトラブルが起こると内心ではざまあみろと思っているに違いない。
「…僕らはとっくに国鉄ではないよ?」
「ええ、登記簿上は」
2007年、JRは民営化20周年を迎えた。 それでも公共交通機関と呼ばれるJRは、国民や外国人から見れば国鉄と同じなのかもしれない。
「なるほど、京浜東北や中央線はいつも抗議されてるわけだ」
上越が皮肉ると宇都宮はふっと笑った。
「抗議には、どう答えたら良いんでしょうね?せめてラッシュ以外の時間に、とお願いしたいところですが」
「繁忙期もやめてほしいな、払い戻しが面倒だから」
こんなジョークは東海道の前では言えない。上越は涼しげな宇都宮の顔を眺めながら、この男は本当は誰に何を言いに来たのだろうと考えた。用件を伝え終えたはずなのに、立ち去らない。
――――――2008.1.1 10:00.a.m.
結局31日は戻ってこなかった東海道あてに、ファックスを流しておいた。携帯に電話をしても出られない状況が続いているらしい。普段から働きづくめで年末もこうで、いい加減彼が気の毒になる。
廊下を歩いていると、仲良さそうに歩いている同じ顔をした二人連れに遭遇した。
「あ、高崎。と、宇都宮、ファックス送っておいたけど今忙しそうだから返事待ってあげて」
型通りに二人は上越に頭を下げる。早く逃げたそうな高崎が面白くて、上越はわざと立ち止まったままでいた。にこにこして怯える高崎を見ていてふと気付くと、宇都宮が自分の顔をじっと見つめてくる。
「5日連続でトラブルが続いているのだから大変でしょうね」
宇都宮が攻撃的な微笑を浮かべた。
「サンスポに『辛幹線』なんて書かれてしまいましたし」
そう言い放った宇都宮の襟首を掴んで壁に叩きつける。宇都宮は痛みを感じた様子も、後悔もまるで見せなかった。寧ろ上越の激昂を、宇都宮は楽しんでいる。自分を手玉に取ろうとしている宇都宮の思惑に気付き、上越の頭は冷えていった。自分の言葉の何かが彼の逆鱗に触れたのだろう。
「何か間違いでも」
「口の利き方がなっていない、と注意をしようとしただけだよ」
5秒前の出来事に寛容な処置を下して、上越は宇都宮を解放した。愉快犯を取り締まろうとしても無駄なことは、いまや誰もが知っている。これで仕事が出来ないなら宇都宮の処分を考えても良かったが、彼の現場指揮能力は埋もれさせるには惜しかった。
隣にいる高崎が一人で動揺している、上越は宇都宮が高崎のように素直であればどんなに楽だったかと考えた。そしてきっと、つまらない。
「おい、宇都宮!」
宇都宮の暴走を止めようと、ワンテンポ遅れて高崎が宇都宮の腕を掴む。宇都宮はそれに微塵も反応を見せず、鋭い眼差しを上越に向けて告白した。
「上越上官にしか申し上げません。それでは」
宇都宮に、態度を改める気はなさそうだった。上越は宇都宮の言葉の意味を考えようとして胸に手を置く。自分にだけ皮肉を言わなければ気が済まないほど、自分たちの関係は深かったろうか?そんなはずはない。
自分は彼にそこまでの悪意を抱かせるようなことをしただろうか。東海道を戒め、JRのために公益を重視して連携を取ってきたつもりだった。在来線の振り替えにも抵抗がない、もっと大切なものを見つめている。
宇都宮たち、在来線に嫌われるほどプライドが高いつもりもない。
考えても分からないことを、考えてもしかたない。自分に非があるはずはないのだから、それでいい。上越は宇都宮のことを考えるのをやめた。
――――――2008.1.1 12:00.p.m.
上越が帰り支度を終えると、ちょうど東海道が戻ってきた。
「もう帰るのか」
「うん」
上越が頷いて、何も言わずに肩に鞄を掛ける。東海道の横顔には疲労が滲んでいた。
「おつかれー」
「おつかれ……って待て待て」
「え?」
鞄を捕まれて上越が振り返ると、東海道は情けない顔でそのまま上越を抱きしめた。あれ。疲れているだろうから、さっさと帰ろうと思ったのに、引き留められた。
「あーちょっと…疲れた」
「ホテル提供おつかれさま」
「おかげで帰れなかった」
東海道は自分より体温が高くて、抱きつかれていると温かかった。髪が首を撫でてくすぐったい。よしよし、と頭を撫でてやる。疲れているときは甘やかしてやる、今日の僕は、そんなには疲れていないから。それに、甘えてくる東海道は、可愛い。
「人身事故、大丈夫そう?」
「ああ。これからもっと増えるかもしれないな」
社会が不安定になって生きていきたくない人が増えて、死に場所を求める。自分たちがいくら人を運ぶことができるといっても、生きるためにお金の掛からない、幸せの国へ連れて行ってやることはできない。それどころか、自分たちを利用することすらできない人たちがいる。在来線とて乗り継いでいけば交通費は嵩む、新幹線など言わずもがなだ。職も家も失って、故郷に帰る切符代さえない人がいる。
「僕たちは、どうしたらいいんだろう……」
何ができるんだろう、この国の行く末を、ただ見守ることしかできないのだろうか。無力さに胸が詰まる。何気なく呟いた上越の言葉に、東海道は肩を抱き寄せた。
「難しいな、俺にしてほしいことならいくらでも思いつくんだが」
「…君ってときどき、びっくりするくらいどうしようもないよ」
呆れ顔をする上越の頬に、東海道がキスをする。やっと少しはゆっくりできる。ひとまず明日を考えることはやめにして、上越は東海道の腕に身を任せた。
年末、他の業種との違いを実感する。新聞社が夕刊を休み、今年は不景気のせいで早くから工場を閉鎖するメーカーも多い。ワークシェアリングをしようとも、シェアする仕事がない、といった切実な声も聞こえてくる。そんな経済事情とは無関係に、JRは臨時便を出し、悪天候と戦いながら、帰省する客を運ぶため、過密なスケジュールをこなしていく。毎年のことながら、この時期になると各路線とも憂鬱を隠しきれない。今年はどんなトラブルが待ち受けているのか、考えることも放棄してしまいたくなるなと東海道は窓の外を眺めながら思った。
――――――2008.12.29 5:00.p.m.
上越が自分を気にしているのが分かる。正面の椅子に腰かけ、さっきから話しかけようと視線を彷徨わせるものの、結局何も言わないから東海道は声を掛けそびれていた。大体、会話のテクニックに長けている人間に、わざわざ話を振る必要があるのか。黙っているのは理由があるからだ。必要があるなら話しかけてくるだろう、そう考えて東海道は上越に何も言わずにいた。自分の目の前のティーカップはとっくに空になっている、もう一つのカップは一度も口をつけられていなかった。今日中に目を通さなければいけない書類が互いの目の前に、まだ山のように積まれている。自分が幼い子どもなら崩して走って逃げてしまえるのに、と半ば妄想じみた憂さ晴らしに耽る。走って逃げて、このままどこかに行きたい。
虚しさを覚えた東海道はため息を吐いて、目を瞑るとこめかみを抑えた。自分のすべきことは目の前の仕事から目を逸らすことでも、自分の慰めたい人間を慰めるほど心優しくない自分を猛省することでもない。
29日、新幹線運行本部コスモスのシステムが誤作動を起こした。便数の増加に伴い入力データを増やしたせいか、データの入れ替えが上手くいかなかったのだ。原因はまだ明らかになっていない。上下合わせて78本の増発、388本の運行はさすがに許容量を超えていたらしい。結果として東北、山形、秋田、上越、長野の5路線が滞り、112本が運休、146本が遅延――最大で4時間20分の遅れが出た。
原因は28日にある。強風と大雪により、秋田・山形新幹線が遅延した。そのロスを補うためにために29日の運行計画を大幅に変更し、膨大なデータが切り替わらなくなってしまったのだった。
視線を伏せたままの上越の顔は青白い。朝からろくに食事もしていないのだろう。昨日の夜も十分な眠りを取っていないに違いない。明日は少しでも楽になるといいが――。自責の念を何とかしてやりたくて、東海道は口を開いた。
「なあ」
いくら綺麗な顔だと言っても見つめているだけでは飽きる、声が聴きたかった。ただでさえこの繁忙期、一緒にいられる時間は限られている。仕事中に言葉を交わすことのできる幸福に酔いしれるのも良いが、自分たちの関係ではその時期はとうに過ぎてしまった。甘い沈黙に二人で顔を赤らめた、あの日々が懐かしい。
大体、上越はおしゃべりだった。これ以上沈黙を続けることが、彼にとって気の毒にも思えてくる。
「28日、僕らがちゃんと走ることができていたら…」
無責任に話しかけた東海道に、上越は縋るような視線を向けた。相変わらず、弱音を吐かせるのも一苦労だ。
一人で責任を抱え込んでいたのだろう、相変わらず他人のためには融通を利かせるくせに自分にちっとも融通を利かせない。その潔さには惚れ惚れするが、危うくて放っておけなくなる。東海道は苦笑交じりに言った。
「無茶な運行計画をなぞって事故を起こしては元も子もない。天候次第で臨機応変に対応して、翌日の便数が増えるのは当然だろう?安全を第一に考えた解決策であって、怠惰の結果ではない」
口を開けば上越の為の弁護しか出てこなかった。それもそのはずだ、上越が責任を感じる必要はどこにもない、誠心誠意対処している。東海道は上越の仕事に対する真摯な姿勢を熟知していたし、現場の状況も把握していた。彼には何の非もなかった。だから自分を始め、誰ひとりとして彼に批難の刃を向けない。もとより、幹部以下の連中にはそれを的確に判断する情報も発言する権利も与えられていなかったし、幹部の中でも上越に主張をぶつけるほど勇気のある人間はいなかった。同じ状況に陥ったとき、上越と異なる対応をとる車両はない。
なにより自分たちにとって、正義は同じ形をしている。無鉄砲に悪天候に戦いを挑んでもしも何かあったら、――――――何かあった後、改善や謝罪をしても被害者にとっては何の意味もないのだ。長い歴史を踏まえて今、公共交通機関に求められているものは、絶対的に安全な輸送だった。
「…1997年11月、」
上越が暗唱する。覚えのある日付に東海道は苦笑する。あれを思い出していたのか。だから、そんな風に塞ぎ込んでいたのか。ダイヤの大幅な改正直後、今回と同じにデータの処理が上手くいかずに東北、山形、秋田、上越、長野―――今回とまったく同じ路線が遅延した。
「あのときもダイヤ変更がコンピュータの処理能力を超えていた。僕らは同じ失敗を繰り返している」
同じミスを繰り返したことを上越は恥じている。時代が進み本数も増え、車両も改良されシステムもバージョンアップしてきた。それでも11年前と同じ理由で自分たちは乗客に不便を被らせた。情けないと思う、その気持ちならよく分かる。
「あのときは、112本だったな」
東海道は冷静に数字を思い出す。今よりは本数が少なかったのだから、今回の方が影響する本数が増えるのは当然だ。
「入力ミスか、システムの問題か―――どちらにしろ、今回もシステムの管轄だ。俺たちはただ旅客を輸送すればいい」
上越たちに責任があるとすればシステムとの連携のみだ。システムがゴーサインを出したからこそデータを書き込んだのだ、責任はシステム部にある。運行計画の管理はもちろん、車両の開発を進めることができれば天候不良による遅延も改善される。それはどちらも技術の仕事だった。
上越は何か言いたげだった。何か言いたげだということは、自分は彼の望む言葉を言っていない。東海道は冷静にそう評価する。
けれどその眼に浮かぶものが何か、東海道には分からなかった。二杯めの紅茶を飲み終えても、上越は続きを言わなかった。東海道は書類を片付けると、膨大なファックスを読み続ける上越の肩を叩いて部屋を後にした。
――――――2008.12.30 3:54.p.m.
予告するわけのない相手に、予告してくれさえすれば、と抱いても無駄な感情を抱く。連絡を受けてすぐ部屋を飛び出し、小田原駅で発生した人身事故の復旧作業に当たる。東海道新幹線にとってこの日が帰省ピークで、乗車率は150%を超えていた。復旧には1時間半を要し、計約140本で最大1時間45分の遅れとなった。自分の処理能力を限界まで費やした、1時間59分以内の遅延で済んだのは奇跡だった。
さすがの東海道も疲労していた。普段から相当数の本数を走らせ、人身事故や風雨のトラブルにも巻き込まれ慣れている。28日の名古屋駅で、東海道新幹線は汚物処理用のホースを取り外すことを忘れて線路に落下させた。
この間の抜けた失敗の後の人身事故という大ダメージに、東海道は考える気力を失くしてソファに寝転んでいた。ノックの音が聴こえても応える気にならないで無言でいる。すると無作法なドアが開いた。
「失礼します」
「…何の用だ」
「小田原駅の人身事故についてです。被害者は遺書を所持していたため、警察では自殺と見て調査を進めています。今後の対応はいかがなさいますか」
失礼なんてかけらも思っていない表情で部屋に立ち入り、すらすらと口頭で説明する人間に、東海道は顔を顰めた。
「なんでお前が来るんだ」
「この時期は暇なもので!上官。そんな話より、早急に法務への指示を」
繁忙期に見たくない顔を見せられて、東海道は不快さを隠さない。本来は後回しにしたい法務を、先に処理しなければならないのも分かっている。年末だけに、連絡がうまくいくとは限らない。大体にして法曹を動かすことには多大なコストと時間を要する。コストがかかることは大抵、時間を要すると言い換えてもいい。
宇都宮を早急に退室させるためにも、東海道は疲弊した脳を回転させた。
「損害賠償請求訴訟の準備―――顧問弁護士に連絡を。警察会見に広報を出席させ、メディアの取材にも協力するように」
「Yes, 上官」
何のアドバイスも要らない的確で明快な指示に宇都宮は一礼した。法務へ出す指示は今のところこれだけだ。東海道は、宇都宮の態度を不気味に思いながら、立ち上がって現場との連絡を取る。
「それでは失礼します」
これから遅延の後処理のために博多まで行かなくちゃいけない。最悪のケースとして、東海道新幹線遅延の影響で帰ることの出来ない人々のためにできる限りのことをする。物資の提供、宿泊施設をどうするか――。
ほどなくして山形や山陽と顔を合わせた。互いの状況を報告し合い、やはり本日のトラブル路線は自分だけであることを再確認する。
現場へ向かおうとして彼らと別れると、廊下で上越に出くわした。上越は東海道の状況を聞こうとするよりも先にまず、一歩歩み寄り不安げに東海道の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫だけど、今夜は帰れそうにない」
不機嫌に言う、東海道の言葉に、心配そうにしていた上越がくすくす笑った。
「なんだ、他人の窮状が―――」
「違うよ。せっかく今日は俺、早く帰るつもりだったのになって」
それは笑うところではなくて、寂しがるところではないのかと東海道はますます不審に思う。どうも、上越の言動は自分とは違う思考回路に基づいていて、よく分からないときがある。
「すれ違いだねえ」
喜んでいるのか、悲しんでいるのか、上越の言葉からは分からない。大体にして、分かりづらい奴なのかもしれないと東海道は稀に思う。自分に対して、普段は分かりやすいから安心してしまっている。本音を言わないときの上越の内心に、自分はどうやっても肉薄することができないのかもしれない。もともと気質が違うのだ、あるいは宇都宮の方が、上越とは似ている。
「いいんだよ、どっちもピンチだったらお互い気遣えないだろ」
東海道は自分の言葉に、上越が目を見開いたことをどう解釈すべきか考えていた。大きな眼が自分を見つめたと思うと微妙に逸れて、目が合わない。伏せられた睫毛が長くて東海道の心に波を打たせる。不自然に腕を組んで、胸の緊張を隠そうとする。
――――――ああどうしよう、何を言おう。
戸惑うばかりの東海道は、上越の控え目な眼差しに気付く。ここ数日の激務の所為か、彼の顔にも疲れが滲む。ああ、自分も同じ顔をしているのだろうか、だとすれば、この辛さを共有できることが自分たちの心を結び付けているのかもしれない。
――――――ああ畜生、どきどきさせやがって。
一人で頑張ることなら簡単にできる。けれど目の前にいない相手が、頑張り過ぎていないか、無事に運行しているかを知ってそれを補佐するには自分はあまりに無力だった。やつれた彼の儚さと色っぽい仕草に心を乱されている。何もできない。だからこうして、ただ一日を振り返る。
「お前の身に、今日は何もなくてよかった」
自分以上に緊張した面持ちを愛しいと思う。東海道は上越の頬に手を伸ばした。
今日の上越新幹線は180%の乗車率、30日にピークなのはどの路線も同じだ。何のトラブルも起きなくて良かったと心から思った。いつ起きる方がマシ、と言うのはあまりに不誠実ではあるが、それでも今日、昨日のようなトラブルが上越の身に起きていたらと思うと背筋が寒くなる。
されるがままの上越が、東海道に視線を合わせる。
「がんばろうね」
そうか、上越がこうやって慰めてくれるから、この困難も苦ではない。沿線は重ならない、物理的な距離は変わらないまでも、理解し合うことで近づいていく。
もしかすると始めから、上越が言おうとしていたのはこの言葉だったのかもしれない。伝えたい言葉を言うだけではどうしたってうまくいかない、自分に言いたい言葉を、こうやってこの人が打ち明けてくれたらいい。これから先も、こんな風に。そうすればこの過密スケジュールも苦にならない。
「ああ。上越、また明日な」