やっと訪れた秋がビルの隙間を抜けて空間を冷やす。東北は肩を竦めて華奢な背中をじっと見た。自分から声を掛けなければ、彼は自分の存在に気付いているのに永遠に振り向かないように思えた。
「随分と機嫌良さそうだな」
軽口を叩くと一言の冗談も許さない険しい顔つきで、上越が振り向いた。東北は無表情で唾を飲み込んで、上越のまっすぐな目を見つめ返す。
タイミングを間違えたかもしれない、と思う。そして、正しいタイミングなど自分と上越の間には訪れないことを思い出す。
「君こそ。どうしたの、油売ってないで持ち場に戻ったら」
「お前もな」
「……」
目を逸らして、次々と東京駅に入ってくる新幹線に移す。上越は東北の言葉には何も応えずに柵に頬杖をついていた。
業務をこなしていないことではなくて東北がこの場にいることを嫌がった、上越の言葉に東北が気付いていないわけはなかった。けれど東北は何も気付いていない顔をして上越の隣にいる。上越にはそれが気に入らなかった。数分置きに入ってくるだけ、車両の方がまだマシだと思う、どんどん速度を上げていく目障りなはやて。それがこの男だと思うと上越はどうしても微笑む気にはなれないのだった。
長野に対する態度を大人げないと東北は言う、でも実際には自分の方が大人げない態度を取られているはずなのに、そのことには東北は何の文句も言わない。
どうして、と訊ねたくなる。訊ねたら負けな気がする。上越は確かめないままそうして密やかな優越感に浸る。
―――君はいつも僕にだけ優しい。
「…なに」
「……」
「言いたいことがあるなら言いなよ。聞くから、ほら」
命令口調染みた言い方で、目だけは合わせる。人の話を聞く態度ではない。しかたなさそうに、上越は東北を促す。東北が眉間に皺を寄せると上越はそれを面白がった。嬉しそうに、口元を緩める。
「怒った?」
「…ガキ」
東北が低い声で呟く、上越は赤面する。東北はたまにこうして、高慢な振る舞いをする上越に好きにさせた後、冷水を浴びせかけるように素っ気なく軽蔑の眼差しを向ける。上越はその度に、真に受けて動揺して一瞬黙る。自分を甘やかしてくれるはずの相手が冷たい態度を取ると上越は怯えた。
「ふ」
そこで東北が笑いを洩らす。上越は文句を言いたそうに両手を握りしめてうつむいた。
「ほんっと気に入らない。君のそういう態度」
「お互い様だろう」
「ねぇ、薄々気付いてたんだけどやっぱり喧嘩しに来たの?」
「いや。誕生日おめでとう」
東北があっさり言ってのけた言葉に上越は拍子抜けしたのか、目を丸くした。
「…それを言いに?」
「おかしいか?」
「おかしいよ、なんでわざわざ」
そう言いつつもさっきまでの仏頂面はすっかり消えて、鉄柵に肘をついて新幹線を見下ろす上越は楽しげだった。東北はそれをじっと見つめる。
口笛でも吹くように、上越の唇が薄く開く。きゅ、と結ぶ。風に目を細めて髪がなびく。東北は静かにその仕草に目を奪われていた。目を離せずに見つめていた。
さらさらと流れる黒髪が美しい。切ってしまえばいいのに、と思う。もし切ったら自分はひどく落胆する。一日部屋から出て来なくなってしまうかもしれない。首を隠す長さの髪が揺れて肌を掠める。その髪に触れてみたくて気が狂いそうになるときがある。長い睫毛を合わせたままの顔を正面から見つめていたい。
自分の眸のシャッターも切らずに東北は口元を隠した。今口を開かなければ自分は何も言えなくなると思った。
「秋田に八つ当たりするなよ、文句は言いたい相手に言え」
「……」
上越は何か言いたげに東北を見つめた。東北は上越の視線に動揺しそうな自分を隠そうとして目を逸らす。
「優しいね」
上越は寂しそうに笑って東北から離れる、東北を置き去りにしてビルに戻って行こうとする。
「たった半年で、年上振らないでよ」
東北は手を伸ばして、その手で何も掴まないまま下ろした。
降りしきる雪の中で消えてしまいそうな笑顔だった。上越は自分の気持ちを何も知らない。お前が秋田に嫉妬するところなんか見たくなかった、見たいはずがないじゃないか。
山陽と二人きりで顔を寄せ合って話す秋田に辛く当たる上越を自分は視界に入れたくない。認めたくない。そんな今更なことに気付かされて恥ずかしさで死にたくなった。
捕まえられなくて良かった、捕まえることができてしまっていたら、おそらく自分はすべて打ち明けてしまっていた。自分の言葉なんか上越は欲しがっていない。誕生日を祝われることは自分の存在を肯定されることとよく似ている。上越が肯定されたいのは、ただ、山陽にだけなのだった。自分とは反対側、西を走る遠い路線に、憧れと愛情を抱いている。隣には自分がいるというのに。
以前、本社の役員に声を掛けられているのを見たことがある。肩にのせられた手を拒絶も受け入れもせず、口元だけ緩めて笑う彼は人を、期待させたままあしらうことに馴れていた。
「上越せんぱいっ! お昼ご飯食べました?」
目をキラキラ輝かせて、新潟から戻ってきたばかりの上越の足元に纏わりつく、長野を見ていると自分は微笑ましさと皮肉りたい気持ちが綯い交ぜになって押し寄せてくる。混乱しかける。
―――少食でロクに飯も食わない上越を、誘ったって断られるだけだっての。
子どもの特権は自分の視界で起こる出来事のうち、見たいものだけを見て見たくないものは見ずにいても、誰からも咎められずにいられることなのかもしれない。自分にもそれだけの自由があれば、そう思うのは目の前の子どもを羨ましいと思っているからなのか、それともただ自分の子どもの頃を後悔しているだけなのか。結局自分の目の前には、遠くから戻ってきたばかりで疲れているに違いない上越を誘うことはできないという現実が転がっているのだった。そしてその足元から目を逸らしたい。
「まだ、だよ」
一瞬黙った後の上越の目は優しかった。隣で見ている自分でさえ優しさに気付くくらいだった。部下との付き合いには分かりやすく目に見える線を引く。コンクリートの上にまっすぐに白い線を引く。その前に立った人間が、その線はどこまでも続くのだとひとりでに理解して諦めるのを待つように。
高崎をからかうことはしても優しい顔はしない、宇都宮を快く思っていなくてもそれ以上干渉しない。それどころか、どこか楽しんでいる風ですらある、自虐的に。
同僚との付き合いなら、もっと分かりやすかった。
弱みを見せず、強がることもなく、誰よりも冷静に犠牲を最小限に留めることに細心の注意を払いながら関係を紡いでいく。大雪で新潟発のダイヤが乱れても、システムトラブルで運行がストップしても、彼は自分にできることだけを速やかに実行して、他人ができることを渋ろうものなら柔らかく、それを遂行するように仕向ける。彼だからこそ許されることを、彼は指先一つで終わらす。
在来線の振り替えを渋る東海道に正論で言うことを聞かせるのも、無言の東北を連れていくのも、いつも上越の役目だった。上越は汗一つかかないが、本当はどちらも至難の業だ。自分は先に口を開くだけで何もしない、対岸の火事を見守っている。
「一緒に食べに行きませんか? 先輩のこと待ってたんです」
長野の言葉は直球だった。今日が何の日かを考えれば、長野が何をしようとしているのかはすぐ分かった。子どもの、とても子どもらしい誘い方だった。人に理由のある特別扱いをされたり、期待されるのが大嫌いな上越に自分はそんなことは言えなかった。それがただ見た目が可愛らしい、美しい、立場が上、などといった形式的かつ客観的な理由であれば上越は当然の顔で受け取った。それが愛情や信頼といった好意からくるものだと気付いたとき、上越はそれを遠ざける、山陽はこれまでそう思ってきた。
「あー…うん」
上越は了承して席を立った。
驚いている間もなく、二人は連れ立って外に出ていく。呆然とする。たかが子どものしたことに、自分は本気で困惑している。長野が上越を独占する。こっちを向かない上越と、嬉しそうにはしゃぐ長野。自分が二人に感じているのは単なる苛立ちではなかった。
「二人で行くの?」
肩越しに聴こえる上越の声、振り向きたいのを堪えた。仮に名前を呼ばれたところで、自分はすぐには振り向けない。
「誰か誘いますか?」
上越が何と答えたかは分からなかった。二人が部屋を出て行ってしまったということは、そういうことなのだろう。
机に突っ伏していると、長野の言葉が耳の中で何度も反響した。
「はーお腹いっぱい! え、どうしたの山陽」
休憩から戻ってきた秋田が屈んで、顔を出した山陽の顔を覗き込む。
「信号の故障でもあった?」
「…なんでー?」
「指名手配犯みたいな顔してるわよ、こんな顔東京駅に貼られてたわ」
「そんな分かりやすい説明要らない…」
死にそうな声を出す山陽に、秋田はこれ以上言葉を掛けづらそうにした。山陽の席を離れて行ってしまった秋田を待たずに、山陽は虚ろな目で曇った空をぼんやり見つめる。
戻ってきた秋田が山陽の視界をコーヒーの入ったマグカップで塞いだ。
「今年も結局渡してないの?」
「だってあいつ受け取らない」
「渡したこともないくせに」
コーヒーを飲みながら秋田は机に腰掛けて、何も考えていなさそうな顔をして山陽を見下ろしていた。山陽は秋田を見上げて、
「あるよ、何度も」
「なに?」
「あったかそうな手袋。肌触りのよいマフラー、きれいな色のセーター。時計、指輪、車、それから…」
「途中から嘘でしょ」
山陽は、はは、と笑って身体を起こしてマグカップを持ち上げた。いただきます、と言うと秋田はどうぞ、と上品な言い方をする。
「分かる気がするけどな、あの子の気持ちも」
「ほんと?分かるの?」
緩く笑ってコーヒーを飲みながら、伏し目がちに訊く山陽に秋田は思わず赤面しそうになる。甘えた口調も突き放した態度も淡い色をした綺麗な眸も、目の前の人間をどうしようもなく緊張させるのに、山陽本人はそれを自覚していない。山陽だけが。
「教えてよ」
誤魔化すように溜息を吐いた秋田を、山陽は冷やかすように笑った。
「ごめんね」
「そういう顔を誰にでもするところが、」
カタン、と音がしてドアが開く。部屋に入ってきた上越はいつも通りの顔をして微笑んでいた。
「どうしたの、二人とも怖い顔して」
上越が、苦笑いのように、片眉を上げて笑う。秋田がさっと青ざめて、上越と入れ替わるようにして部屋を出ていく。上越の後ろに立っていた長野が秋田を振り向いて、秋田先輩、と小さい声で呼んだ。
上越は山陽と目を合わさない。自分のデスクの引き出しを開けると、中に入っていたものを取り出した。
「長野」
「はい」
「おいで、お礼あげる」
長野に向かって歩いて行って、渡したものが何だったのか、山陽には見当もつかない。自分が受け取ってもらえないものを長野は受け取ってもらえたのだろうか、そう思うと胸が焼かれそうに熱くなった。眼差しだけ冷めている、耳を塞ぐのを我慢して心を鎖す。上越はソファに座ってテレビの電源をつけた。
「ありがとうございます」
お礼を言っている長野の顔が見えなくて良かった、心からそう思った。
「だまるのってずるいよね」
目の前で眉間に皺を寄せる、彼の普段の行動こそずるいという形容詞がぴたりと当てはまるというのに、当の本人は自分がずるいなどとは微塵も思っていない様子だから不思議だ。人の振り見てわが振り直せ、と格言をここで呈しても彼は聴こえなかった振りをするだけなのだろう、あるいは、「今はそういう話をしているんじゃないよ」と眉間の皺をさらに深くするか。
しかし結局、相手が自分に愚痴を言うのをやめさせたいわけじゃない、東北は上越の顔をじっと見つめる。その言葉が誰に向けて発せられたものなのか、ここにいる自分なのか、あるいはここにいない誰かに対してなのか、―――判別がつかないまま、黙って言葉の続きを待った。
午前には全員揃っていたはずの部屋には既に、2人しか残っていない。一番早くてあと1時間で、長野が戻ってくることになっていた。
「ちょっと。何か言いなよ」
「何を言えばいいんだ」
空になった上越のティーカップにお茶を注ぎ、ポットを置くと上越が一瞬目を丸くした。嬉しくも悲しくもないが、ただ驚いただけのような顔をして。
萩の月のパッケージを開けると、その驚いた顔をした上越と目が合った。何も考えずに萩の月を差し出すと、正気に戻ったように、
「いい」
と不貞腐れた子どものような顔をして自分の分の袋を開ける。
甘いものが大好きな彼が食べる前から文句を言っているのは珍しかった。よっぽど腹に据え兼ねているのか、それなら自分ではなく本人を呼び出して言えば良いものを、なぜ彼はそうしないのだろう。
生来のプライドの高さゆえか、自分にそうする権利がないと思っているのか、あるいはもっと別の。
「……」
「お前だって黙るんじゃないか」
ふっと視線を逸らして、口もとから笑いがこぼれた。
意地悪を言うつもりは毛頭なかった。本音を言うなら、自分にはいっさいの非がないと本気で考えていそうな彼を、問い詰めてみたかったのだけれど。
他の誰の前でも饒舌で意地っ張りで理詰めの反論を得意とする彼が自分の前では少しだけ大人しくなる。
「理由を訊いているのに黙られたら、その先の会話が続かないじゃない。“黙れ”って言ってるのと同じだよ」
無口な男と付き合っているおしゃべりな女の子の恋愛相談か、あるいは無口な上司と上手くいかない部下の愚痴か。自分が付き合っているのはそのどちらだろうと思いながら、上越に文句を言われる前に会話を繋いだ。
「お前は何を訊いたんだ?」
「別に。昨日の夜何してたの、って訊いただけ」
最後まで言い終える前に視線を逸らすから、つい追いかけてしまう、その先を。飲みかけのティーカップの中身、濃淡のあるオレンジ色を見つめて震える彼の指先に気付いた。
「言えないようなことをしてたってことか」
思い切り傷ついた顔をされて、(傷つけられた、と訴えかけられるような顔だったのかもしれなかった)、その顔に、言わなければ良かった、と後悔させられる。傷つける気はなかった、傷つけたくなかった気持ちと、この言葉で傷つくことを知りたくなかった、身勝手な気持ちがないまぜになって、この先の言葉が見つからない。上越に比べて自分に傷つく権利はない。
お前は何度も人を黙らせてきただろう、勝気なくせに泣きそうに笑う顔、よく透る澄んだ声、仕草や表情、ただそこにいるだけで同じ空間にいる人間をはっとさせるくせに。彼の、目の前の人間が口を噤むことなど誰にも咎める権利がないと思えた。
人が黙るのは、これ以上何も知りたくないからだ、知って、これ以上傷つく勇気がないから。だから静かに、会話を終わらせてしまう。二の句が継げない自分がその証明だ。
「上司と食事に出てただけ、って、」
彼が昨晩何をしていたか尋ねた後、そう答えた本人に追及したか、あるいはせずに黙りこんだか、そのどちらなのかは分からなかった。どちらもあり得るような気がした。追及する上越はいつものように、気にしていない振りで何気なく訊ねるのだろう。何も言えない上越は、その一言で実際の昨晩の出来事を想定して口を閉ざしたのだろう。―――そっか。そう言って、相手に何も求めずに心も一緒に閉ざす上越が目に浮かぶ。
恋人の浮気に気付かない振りをする女のように自分を守って、何べんも見慣れた包み紙に苦い食べ物を包むように。好きだという気持ちと同じくらい頑丈に、疑って、信じられなくなりそうな気持ちを隠す上越に、どう接したら良いか分からなかった。澄んだ眸をして自分を見つめる上越が、本当に、彼を信じているのかも。
「あいつがそう言うなら、そうなんだろう」
目の前の人間の望む言葉を口にすることしかできない自分はこの上なくみっともない。いっそ、その上司の性別と行き先、証拠をすべて並べて叩きつけて彼の顔が悲しみと嫉妬に歪むのを見届けて、そうして、―――。
できるはずのないことを思い浮かべた。あいつ、という言葉に彼が何か言いたげに見つめてくるのを、正面から見つめ返す。
喧嘩のあとでこうして自分にすがりついてくる彼を慰めるのは嫌いじゃなかった。彼のこの弱さと葛藤が、いつか自分のものになってしまえばいいのに。そんな叶わない思慕を抱いて見つめる、そうすると彼が、いっそう美しく見えるのだった。
( 俺ならそんな嘘は、つかないのに )
意味のない誓いを立てて瞬きをする。目を開けた後、彼との出会いからやり直せたとしたら、自分は始めに何を言うだろう、と考えた。
山陽←上越
君の~→ 僕だけ~→ これ
右脚に残る鈍い痛みは眠気をますます酷くした。客がざわめき立つホームで孤独を味わうのは嫌いじゃなかった。ときを見送って溜息を吐く。右足を半歩、前に進めて眉を顰める。まったく、砂利の上に着地なんかするものじゃない。のろのろと重い足を上官室に向けた。
「今日の夜、予定入ってる?」
「なに?」
「きりたんぽもらったからうちで鍋しようと思って。来れる?」
秋田の誘いに一瞬だけ考えた。顔を上げて秋田の顔を見ていると精神的には落ち着いた。
「――ありがと」
「来るってこと?」
「ああ、ごめん。ちょっとやらないといけないことがあって、行けないんだけど」
礼を言いたくなって口にした言葉はどうやら紛らわしかったらしい、どうも自分は言葉の使い方が上手くない。残念ね、と呟く秋田に口元が緩む。
――――――いいんだよ、放っておいて。
優しさに癒されて、同じくらい優しくできる人間を僻んでいる。僕もそんな風になりたい。
*
文庫本を片手にソファに寝そべっていると部屋のインターホンが鳴った。読みかけの本を閉じようとして、テーブルの上の栞を取った。途端にすべてが面倒臭くなって、本は栞を挟まれないまま、繰ったページを忘れさせられる。ソファに埋もれて音が聴こえない振りを続けていると、今度は乱暴なノックに変わった。時計の短針は10を差している、こんな時間に来ただけでなく騒がしいなんて、非常識な来客には怒りしか湧いてこない。鉛のように重い躰を起こしてドアを開けた。
「誰」
「よ」
山陽を前にして、どんな顔をしていいか分からなくなる。多分僕はよっぽど間抜けな顔をしていたんだろう、山陽が、僕を誤解させようとしてるみたいな優しい顔で笑う。
「寝起き?」
「違うよ」
「久しぶりに人を見たような顔してるな」
そう言って山陽は部屋に入って来ようとした。僕が避けないのに山陽は強引だ。大体、久しぶりに人を見たって?毎日飽きるほどホームで視ている、何万、何十万、何千万の人間を輸送して、そんなことを言われるのは心外だった。
山陽の言葉がもっと違う意味で、たとえば自分が人と認識するもの――を指しているのだとしたら、答えを考え直さなければならないけれど。
「どういう意味?」
「上越、ここ座れ」
「ねえ、ここを誰の部屋だと思ってるの?」
相変わらず人の話を聞いていない。突然何の約束もなしに夜中に人の部屋に上がり込んでおいて、山陽は自分に命令してくる。不愉快にならないわけがない、まずは理由を教えて欲しい。今この場で何がしたいのか、何をしに来たのか、自分にどんな権利があると思ってソファに座れと命令したのか。
睨みつけても山陽はしゃがんで、怯むどころか何のダメージも受けていない軽薄な笑みを浮かべて見上げてくる。
「いいからほら、わがままは後にして座りなさい」
「……」
腕を組んで山陽を見下ろす。これ以上拒絶をすれば力任せに言うことを聞かされるのだろうか、そうなれば今の自分に勝ち目はない。損得勘定を済ませると、明後日の方向に息を吐いてソファに腰を下ろした。
「いつ気付いたの」
自分の投げ出した脚に手を伸ばし、山陽は靴下を脱がす。山陽は自分を見上げて目を合わせてから、逸らす。その所作に僕は胸騒ぎを覚えて、この男の思う壺にはまっているような気がして悔しくなる。見るならずっと見ていて欲しい、そうされたら鬱陶しいと思えるのに。こんな風に見つめられて目を逸らされると、次に自分を見るのはいつだろうと自然、目で追う。自分の部屋なのに居心地が悪くなる。
「とっとと戻れって追い返されて、ああ、見られたくないもんでもあんのかなって」
「なくたって戻れって言うよ、君があの場にいても無駄じゃない」
山陽が持ってきた湿布はひやりとして気持ちが良かった。足首の腫れをすぐにでも回復させてくれるんじゃないか。もしかすると、見た目に腫れているだけで、もう立ち上がっても痛みなんか感じないんじゃないか、そう思わせた。実際に立ち上がるほど自分は愚かではないのだけれど。
戻れと追い返した理由を山陽に見透かされたのかもしれない、足を捻ったことなんて知られたくなかった。第一、知らせたところで何になるって言うんだ。痛みが早く引くわけでもなし、余計な心配を掛けて、周囲の荷物になって――、そのくらいなら誰にも知られないでいる方がずっとマシだ。それに、もしも誰にも心配されなかったらどうする?そんなことどうでもいいと言わんばかりの眼差しで見つめられて耐えられるほど、自分の心臓は強くない。
「そんなに俺は頼りないか」
山陽が自分の脚を見つめて、溜息を吐くように呟く。僕は何も答えない、何も言う必要がないからだ。山陽は本心では自分を頼りないなんて思っていないし、僕に頼られなかったところで山陽に利はあれど不利益がないのは目に見えている。自分のような依存心の強い人間に僅かでも魅入られたら不幸だ。自分以外の、たとえば東海道や秋田に頼りにされている山陽が、自分に頼られたいと考えているはずがない。
「ま、いいけど。痛い?」
「別に」
「こんだけ腫らしといてか」
好きで腫れさせたんじゃない、そう言おうとして、まるで怪我をした後の子どもの言い訳のようで口を噤んだ。手当をされているせいか、山陽の指先が優しく自分の足を撫でるせいか、会話を長引かせるためのわがままな言葉ばかりが頭に浮かぶ。かわす言葉が浮かんでこない。まるで、どこかに落としてきてしまったみたいに、山陽をはぐらかす言葉が見つからない。
本当はずっと前からそうだった気もする。東海道に愚痴を言ったり、東北に車両をねだってみたり、秋田や山形と世間話をしたり長野を可愛がることはできるけれど、山陽の前でだけ僕は上手く話せない。始めはたくさんあったはずの言葉が、迷っているうちにいつのまにか消えていって、拾うものがなくなってしまう。最後には自分の躰だけが真っ白い雪の中に残される。
山陽に見つめられるとそんな風に、口を利けなくなる。自分が自分じゃなくなっていくみたいで、僕はひたすらに怯えている。見つめられた部分から、躰が創りかえられていくみたいに、自分の躰じゃなくなっていく。足首、脛、腿、ああ、もう駄目だ。
「さっきまでは腫れてなかったよ」
これは本当、少なくとも就業時間まではここまで腫れていなかった。今では踝を赤く染めているけれど。
山陽は丁寧に包帯を巻いてくれる。指先が僕の脚の周りを天体のように回転するのを、僕はじっと見つめていた。山陽の指先が、僕はあまり嫌いじゃない。綺麗に整えられた爪を見ていると案外几帳面なんだなと思う。爪の形は花弁のように丸くて薄い桃色をしていて、果物のように甘いのではないかと密かに思っている。
「腫れてるんじゃなくて脚が太くなったとか」
「そう言われると愉快な気分にはなれないね」
山陽のジョークについまともに答えて、眉の垂れさがった顔で笑われて、自分が何を言いたかったのかまた分からなくなる。女でもあるまいし、脚が太いと言われたところで傷つくわけじゃない、自分が感じている不快感の正体を考える。山陽の旋毛を見下ろしながら。彼の茶色い髪にももう随分馴れてしまった。
「冗談だよ、お前は痩せてるから」
「だから、そう言われても微妙」
男が痩せてるだとか脚が細いだとか、躰の部位を褒められたところで――、不満を並べ立てようとして、言いかけた言葉を呑み込んだ。こんなことを言えば、それは、女に言う言葉を持つ山陽を見て、自分の目の前に現れただけでもない女に嫉妬していると吐露するようなものだった。女に向ける言葉を自分に向けるなと、そう言いたい。そんな醜態を晒すくらいならもう二度と山陽と顔を合わさないことを自分は選ぶ。
「できた」
包帯を巻き直してもらうと脚は随分楽になった。山陽はすっと立ち上がって隣に座る。
「……何」
ソファに肘をのせて頬杖ついて自分を見つめる山陽が何を考えているのか、僕には何も分からない。ただ、柔らかいその笑みが、足首以外の自分の傷を癒していくようで、困る。
「無理すんなよ。子どもが落ちたからって、慌てて線路に降りたりしないで、周りに言え」
「見てたようなこと言う」
山陽の口ぶりがなんだかおかしくて笑ってしまった。笑うと、山陽は目を逸らした、その視線の先をつい探ったせいで、視線が戻ってきたとき、まともに目が合ってしまった。
「――ま、見てねーけど」
山陽の眼は、たまに鋭くて、僕は言おうとした言葉を口の中で呟く。
――――――本当は、見てたんじゃないの?
言えるはずがない。そんな痛々しい自惚れを口にして、その後のことを考える。もしも見られていたとしたら、山陽が去った後見送ることもできなかった自分も知られていそうで怖かった。背中を見たらその瞬間に、引き留めてしまいそうだった。置いて行かないで、右脚が痛むんだ、一人にしないで。傍にいて欲しくて自傷したように嘆いていた。あのとき駆け付けたのが山陽でなかったら、自分はもう少し素直になれたのかもしれない。喜んでいない振りなんかせずに済んで、強がる必要もなくて、一緒に上官室に戻れたのかも。そう思うと自分は山陽の傍にいてはいけない気がした。
結果的に今こうして部屋まで訪ねて来てくれたことに、僕はとても満足している。風邪を引いて母親に看病してもらう子どもみたいに、一生治らなくてもいいとさえ思う。それと同時にこの部屋に二人きりでいることに動揺している。カーテンの奥の窓、クローゼットの隙間、本棚の本たちは、僕がこの部屋で何を考えてきたかを知っている。秘密がこぼれてしまわないよう、僕は祈る。
山陽が自分の部屋に一人でやって来たのは初めてで、僕はまだ山陽の部屋を訪ねたことがない。ずるいな、ちっともフェアじゃない。ああでもともかく、部屋を散らかしていなくて良かった。
インターホンがもう一度鳴って、僕は山陽を見つめたままでいた。
「出ねーの?」
「…うん」
今、この場でドアの向こう側の人間を招き入れて二人でいる理由を説明するのは耐えがたかった。東海道や山形はないだろうから、秋田か長野か。秋田が心配して来てくれたのかもしれない。それなら彼の優しさには答えなければと思うのに、脚はぴくりとも動かなかった。山陽に不自然に思われたらどうしようと悩んだが、自分も無視されたせいか山陽は気にしているように見えなかった。
この部屋の空気が乱れるのは嫌だと思った。二人の時間を誰にも邪魔されたくなかった、違う、邪魔されなくたって嫌だ。誰にも、知られることさえしたくない。足首の腫れも胸に広がる甘い動揺も、山陽の軽薄で大雑把な笑い方も、全部、誰にも知られたくない。
「帰ったみたいだな」
山陽が、何の音もしないドアを見て言った。
「普通は帰るんだよ」
インターホンを鳴らして、応答がなければね、と胸の内で付け加える。
「わざわざ探した湿布が無駄になるのは虚しいだろ」
「それはそれは、わざわざどうもありがとう」
山陽の嘘臭い笑顔に同じような笑顔を作る。結局こんなお礼の言い方しか言えない自分の可愛げのなさに絶望する。こんなのお礼を言ったうちにも入らない。空々しい感謝しか口にできない大人、こんなの自分の理想じゃなかった。
山陽が時計をチラ、と見る。
「そろそろ帰るかな」
「そ」
見送ろうとして立ち上がる、山陽と目線がかち合う。
何をしに来たのと二度訊ねた、その理由を彼は知らない。
――――――心配して、僕がいないと不安になって、そしていつか、君なんか、僕がいなければ何もできなくなってしまえばいい。
「さっきの、嘘だからな」
「え?」
部屋を出た山陽は少し、怒ったような顔をしていた。去り際に言われた言葉の意味が、把握できない。さっきのって何?何のこと。そう訊く前に、山陽は歩き出してしまう。追いかけて訊けばいいのか、自分で考えなければいけないことなのか、僕はそれすらも自分では判断がつかなくて、山陽の言葉を思い出そうとした。
湿布をわざわざ探してくれた、本当は見ていた、僕が痩せているかどうか、怪我に気付いたタイミング。どれ?
本当か嘘か分からない言葉をいくら集めても、パズルは完成しなかった。どの言葉も嘘だったらいいのにって思っているせいだ、きっと。
避けられていると気付いたのはお昼になる少し前。出勤してすぐ廊下で顔を合わせて、いつも通りにおはよう、と言ったら目線を合わせただけで彼は通り過ぎて行った。
――――――昨日のお礼言いたかったのに。
何だったんだ、あいさつくらいちゃんとしなよ、と上越は頭を掻いて自動販売機を探す。それから昨日の昼のこと、夜の強引さを思い出して、改めて東北の行動は謎がかっていると思う。自分に理解させる気がないとしか思えない。
「上越上官、おはようございます」
紅茶のペットボトルを片手に持った上越に、曲がり角ではち合わせた高崎があいさつする。
「ああ、高崎。ほんと高崎は単純でいいねえ、癒されるよ」
「は…」
きょとんとした高崎に上越はにっこり微笑みかける。素直そうで、単純そうで、優しそうで、無害に見える。扱いやすさという面で、上越は自分の部下である高崎にとても満足していた。
「上越上官、おはようございます」
「ああ、君もいたの」
朝から見たくない顔を見てしまった、と上越はテンションを一つ落とす。宇都宮からは、上司の前で作り笑顔を浮かべるだけでちっとも誠意が感じられない。
「始めからいました」
「ああそうだっけ、ごめんね、気付かなかった」
「それは八つ当たりですか? 僕に何か原因があるのなら改善させて頂きたいのですが」
「宇都宮」
一触即発な二人の会話に高崎が割って入る。自分の上司と同僚の諍いに同席させられるのも、そもそも言い合いをさせるのも高崎は嫌だったのだろう。上越はそんな高崎には答えず、宇都宮をまっすぐ見つめた。
「八つ当たりって何のこと?」
「僕の上司に対するストレスや劣等感――でしょうか?」
上越は宇都宮の言葉に、彼の顔を見つめたまま黙り込む。てっきり即座に反撃されると思っていた宇都宮は、何も言わない上越を意外そうに見る。これでは、この後に用意してあった言葉が使えなくなってしまう。
「僕が劣等感を持っているとしたら、向こうはストレスを感じているのかもしれないね」
自嘲するようにそう言って上越は立ち去った。カツカツと響く足音、すっと伸びた背筋が美しい。残された宇都宮は、自分の顔を睨みつけている高崎に気付く。
「え、何?」
「お前やめろよ、上越上官いじめるの…」
「え? 喧嘩売られたのは僕の方だと思うんだけど」
宇都宮がそう言っても高崎は聞き入れない。上越上官可哀想、なんて本気で言っているのかと宇都宮は自分の耳を疑う。普段から馬鹿だ単純だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿で単純だったとは。ああでもそうやって思わせるのが上越上官の手管なのだ。
宇都宮が呆れて何も言えずにいると、高崎は言う。
「お前のそれは同族嫌悪だ」
「……」
宇都宮は自分の耳を疑って、高崎の言葉を反芻した。
――――――同族嫌悪。
「僕とあのひねくれ者の上官のどこが同じだって言うの」
*
上官室には既に東北がいた。上越は、なんだ、それなら待ってくれたって良かったじゃないかと思う。すたすたと一人で歩いて行くなんて冷たい。おかげで朝から宇都宮に絡まれてしまった、上越はそれを東北の所為にして終わらせた。
「おはよ」
「おはよー秋田。今日も可愛いね」
「上越先輩だって可愛いです!」
「ありがとう、長野は眼科へ行っておいで」
朝の挨拶代りに秋田を褒める上越を、秋田はいつも聞き流している。今日は長野が傍にいて、上越に言い返したせいで面白いことになっている。
「僕、両目とも2.0です!」
「そっかーじゃあ悪いのは目じゃないね、何だろうね?」
あんたの性格でしょ、と言いたいのを秋田はぐっと堪えていた。余計なことを言えばこういう出来事は悪く転がる。上越は今、長野と話しているのだから自分は黙って事の成り行きを見守ればいい。秋田は状況をそう判断する。
問いかけられた長野が椅子に座って涙目で上越を見上げている。
「上越先輩…」
「ん? なに?」
上越は書類に目を落としながら声だけ長野に向けた。
「可愛いと言われるのは嫌ですか? ごめんなさい」
「んー?」
上越は右手にペンを持って頬杖をついて、長野にちゃんと目線を合わせた。微笑むのではなく相手の出方を試すように柔らかく目を細める。
「大人になったら答えてあげる」
この人たらし!と秋田は胸の内で罵った。秋田の目には、顔を赤くしてうつむいてしまった長野が哀れでならない。子どもが言っても本気にされない、上越を可愛いと言うには大人の姿をしていなきゃだめなんだ、そう思って大人になる長野が可哀想だ。
見てはいけないものを見てしまった、上越といるといつもそんな気にさせられて秋田は二人から目を逸らす。いや、長野だってそんなに馬鹿ではないはずだ。大人になる過程で気付いてくれるといいけど、と期待する一方で、大人になる過程で傍にいれば思いが強くなる可能性の方がずっと強いと気付いて、秋田は考えるのをやめた。結局自分がいくら考えたところでどうしようもない。
「ほら、仕事して」
「はい」
上越に促されるのは癪だが、自分も仕事しよう、と秋田は仕事を再開した。
東海道に仕事を言いつけられる前、上越は新聞紙を探していた。見ると東北が読んでいて、上越は東北に近寄っていく。
「ねえ、天気見せて」
「ああ」
東北は新聞紙をばさばさと畳んで上越に見せてやろうとする。上越が顔を近付けて天気の欄を指でなぞる。
「シュークリーム美味しかったよ」
「ああ…」
東北は頷くだけで他に何も言わない、上越は東北の反応のつまらなさにむっとする。
「ねえ」
上越が肩を掴んでも、東北は無反応だ。
「……何か用か」
上越が文句を言いたげに東北を見る。東北は無表情なまま、上越と目を合わせない。さっさとこのやりとりを終わらせてしまいたそうに、鬱陶しそうに眉を寄せる。
「もう知らない」
上越は東北から離れて自分の机に戻り、その後、東海道に呼び出された。
東海道の言いつけに従って上越が上官室を出て行こうとして、ついてきた山陽と一緒に行く。上越は、昨日部屋から出るときに山陽とぶつかったのを思い出して、何か不審に思われているかもと言い訳をした。
「…あ! 昨日の? 何もないよ、ちょっとお腹いたくって、それで―」
それで急いで部屋を出たんだ、と早口で説明する。山陽の何か言いたげな視線の先回りをしたつもりでいると、山陽はその相手の名前を出した。
「東北が」
東北が何だと言うのだろう、山陽は何か訊いたのだろうか、考えてみればあの後二人で何か話した可能性はゼロではない。何か知っているのだとしたら、教えてほしい気もする。
手錠を掛けたことを今更怒ってるのか(最初に仕掛けてきたのは向こうだ)、昨日の態度がいけなかったのか(手を繋がれなきゃ逃げなかった)、せっかくこっちから話しかけても無視されている。昨日は手を握って来て離したくない、なんて言ったくせに、人の部屋に押し入ったのにシュークリームを渡しただけでさっさと帰って、次の日には別人のような態度を取るのだから意味が分からない。
「ちょっと。何、続きは」
それとも山陽が見ていて、東北が自分を無視していることに気付いたのだろうか、と上越は思う。山陽なら気付きそうだった、気付かれていたとしたら嫌だと思った。自分たちのよく分からない関係が周囲の人間に気付かれていたとしたら、なんだか、すごく。恥ずかしい気持ちがこみ上げてくる。やっぱり言わないで、と言おうとして山陽を見た。
「お前のこと、好きって」
山陽の言葉は自分にとって完全に予想外だったし、あり得ないことだった。思わず後ずさって山陽を見る。山陽は怒ったような顔をしていて、だから上越は怒られたような感じがした。どうして自分が怒られなければいけないのだろう、と上越は理不尽に思うが山陽の眼差しは鋭いまま自分の胸に突き刺さる。動揺が、見透かされている。
「お前、背中ぶつけてね?」
「な、なに馬鹿なこといっ…」
――――――あ、馬鹿、話題引っ張った。
背中痛いよって言えば良かった、と上越はすぐに後悔する。山陽の問い掛けに答えれば良いだけだったのに、その前の言葉に自分が動揺しているのが見破られている。どうしよう、どうしよう、山陽は絶対自分の動揺に気付いた。
「本人に確かめてみれば?」
山陽はそう言ってすたすたと歩き出してしまった。
なんだか今日は置いて行かれてばかりだ、と上越は呆然と立ち尽くす。
確かめる?そんな必要がどこにある?東北が自分をどう思っているかなんてどうだっていいだろう、職務に支障をきたさないのであれば、好かれていようが嫌われていようが、遠ざけられようが構わない。それなのに昨日の彼と今日の彼がちぐはぐでその理由を考えてしまっている。
上越は頑なな自分に溜息を吐いた。自分が東北にどんな感情を抱いているかを考えたくない、それでも、東北がどういうつもりなのかを知りたい。始めに逃げ出したのはこっちなのに、避けられてお礼も言えないのは嫌だなと思う、自分はわがままなのだろうか。そういう意味で、相手の気持ちを確かめたい、とは思うのだけれど。
――――――確かめるったって、ね。なんか避けられてるっぽいし。
もう知らない、と言ったんだ。何もなかったことにしてしまおうか、そうだ、きっと何もなかった。
上越は欠伸を噛み殺す。ホームで発車時刻を確認しながら、時刻表の変更欄にマーカーを引いた。
――――――もう知らない、なんて、知りたいから言うんじゃないか。
気付いたら今日一日ずっと、君のことを考えている。
次の日の二人は始めのうち、いつも通りに見えた。山陽は新聞を読んでいる東北をちら、と見る。東北は黙々と新聞を読んでいる。
「あ、おはよう、山陽」
「…おー」
ぱたぱた走っていく上越は東海道に今日のスケジュールを確認している。
「えーちょっと待ってよ、無理だよ」
「無理じゃない、やるんだ」
「僕、汗掻くの嫌いなんだけど!」
ロクな説明もせずに上越に命令口調で言った東海道を、上越は不愉快そうに詰る。また何か厄介事を押しつけられたのだろうと推測して山陽は状況を見守っていた。
「大体いつもそうじゃない? 僕には当日言えばいいと思ってさあ、東北にはちゃんと前日に連絡するくせに」
「当たり前だろう、被害の規模を考えたら」
「被害が小さくて悪かったね!」
頼みごとをしているとは思えない。もともと仲の良い東海道と上越は、仕事中にも関わらず二人とも砕けた態度をとる。山陽はそれを横目で眺める。楽しそうだなあ、いつも通りだ。いつも見ているから二人の行動のタイミングも分かりやすくて、そろそろだな、と山陽は席を立つ。
「臨機応変に動いてもらえて助かってるぞ」
「~~っもういいよ!」
今更何を言っても皮肉にしか聞こえない東海道の言葉に、上越は会話を投げ出して部屋を出て行こうとした。
「行ってきます! バ海道!」
「お前な、」
「あ、ちょい待ち」
「へ」
上越はべえっと舌を出した。山陽は部屋の出口で待ち構えて、上越の詰襟に人差し指を突っ込んだ。上越は立ち止まって、襟を抑えて山陽を振り向く。
「わ、何すんの」
「俺も行く」
上越は普段通りだったのに、東北が釣れた。山陽は、東北が一瞬だけ上越を見たのを確認して、上越と一緒に上官室を出た。
「何か用事?」
「んー、ちょっと…」
「…あ! 昨日の?」
察しの良い上越は、目的が自分にあると判断したらしく即座に話題を振ってきた。相変わらずよくしゃべる。そういうおしゃべりな人間が、昨日みたいな態度を取ったから気になるんじゃないか、と山陽は複雑な気持ちになる。上越が普段通りに話せば話すほど、普段通りじゃない上越が気になって仕方ない。
――――――昨日東北に何された?
そう訊ねる権利が、自分にあるのだろうか。
「何でもないんだけどね、ちょっとお腹いたくって、それでー」
「東北が、」
自分を騙せると思って歩きながら嘘を吐く上越の言葉を止めたかった。上越の口の動きが止まった。黙れとは言っていないのに黙った、上越は前を向いている。
「……」
「何、続きは?」
「お前のこと、好きって」
上越が顔を真っ赤にしてとても驚いた顔をしている。自分の顔が真っ赤なのにはまだ気付いていないんだろう。上越はそのまま山陽から離れて、廊下の壁に背中を張り付けた。追い詰められた子どものように、じっと山陽を見てくる。山陽はそれを見て呆然とする。
「お前、背中ぶつけてねえ?」
「な、なに馬鹿なこといっ…」
――――――ああ、やっぱり。
確信させられてしまった、上越の反応は、何もされていない男の仕草じゃない。昨日の時点でもそれは分かっていたことなのに問い詰めなかったのは、問い詰めても無駄だと思ったからだった。もし、東北と上越の関係が以前のままなら、上越は自分の言葉を嘘だと見抜いただろう。
山陽は顔を真っ赤にしてうろたえる上越に、何を言えばいいのか分からなくなった。普段はみんなが慌てていても涼しい顔をして、何にも縛られずに自由なくせに、こんな顔もするのだと知った。
山陽は始めから東北の言葉を信じていたわけではなかった。むしろ、嘘を言うのが当然だ。これまで自分たちは逐一恋愛に関する報告をし合ってきたわけじゃない。東北に事実を言う義務はないし、あの男はそんな義理を感じてもいないだろう、と山陽は冷静に判断する。
「あのさ、」
今考えてみても自分がなぜそんな台詞を吐いたのかは分からない。何があったと本人には訊くことのできない自分はこうやって外堀から埋めて自滅していく。
「気になるんなら、本人に確かめてみれば?」
上越が焦れば焦るほど、山陽は頭が冷えていった。冷えたのは心だったのかもしれなかった。
*
「山陽おかえりー…あ、1人?」
「なんだよ」
「上越は一緒じゃないのかなって」
山陽はクッションを抱き締めたままソファに沈んでいく。
分かっていて言ってるんじゃないか、秋田は全部。そう穿った見方をしたくなるくらい秋田は的確に自分の傷を抉ってくる。
「お前…俺、最近お前に何かしたっけ?」
「あ、ごめんごめん。いじめる気はなかったんだけど」
ソファに寝転がって秋田を見上げる山陽の隣のソファに、秋田が腰を下ろす。秋田は自分で淹れたコーヒーを飲んでいた。
「なんであんなこと言っちゃったんだろう…」
「ん? 何か言ったの」
山陽は四角いクッションを座布団のように折りたたんで、ソファの背もたれにくっついて背中を丸めている。
「上越に」
秋田が続けた言葉に、山陽ががばっと身体を起こした。
「え!? 見てた?」
「何を?」
澄ました顔で言う秋田を見て、山陽はいじける。
「お前はめたな…」
「あんたはめて何になんのよ、馬鹿馬鹿しい」
秋田は呆れかえって、山陽を蔑んだ眼で見下ろすと立ち上がった。言われてみれば確かにそうだ、自分に白状させて秋田が得をすることは何もない、と山陽も思い直す。
「あっ待っ 待って! 見捨てんなよ」
山陽が秋田の手首を掴む。秋田は山陽が気の毒になったのか山陽の顔を見た。
「そういう決め顔を僕に使ってどうすんのよ…」
「は?」
「で、何言ったの」
「東北って上越好きなんじゃないのって…」
「!」
秋田が目を丸くしたのを見て山陽は自分の顔を両手で覆った。何も言われなくても分かる、俺、ナイスアシスト。しかもその後東北に訊けばって言った。言っちゃった!!
東北の気持ちに上越が気付いているのかどうかは知らない、上越が東北をどう思っているのかも分からないが、二人の関係の後押しをしてしまった自覚はある。
「分かってるからもう何も言わないでくれ…。だって、上越が東北の名前出したら固まるからからかいたくなっちゃって、そしたらあいつ」
「……」
「何か言えよ!」
「どっちよ」
さっきは何も言わないでって言ったくせに、と秋田は山陽の理不尽さに付き合いきれずに文句を言う。
「あんたの考えてることが真剣に分からないわ…」
「だって!むかついたんだもん!」
好きな子にちょっかいを出す小学生みたいな行動に出た山陽に、秋田はかける言葉が見つからない。いや、今自分の隣にいる人間が小学生だとしたらその行動はとてもよく理解できる、しかし山陽の女扱いの上手さや、それだけでなく他人への気遣いの上手さを秋田はよく知っていた。だからこそ山陽は人当たりが良くて自分たちの間の調整役を買って出ることも多かった。
そんな山陽が、今まで上手く関係を築いてきた上越の前でどうしようもなくなっているらしい。話を聞かされながら秋田は自分の立ち位置を悩む。
「東北って上越のこと好きだと思う…?」
「好きだと思ってんじゃないの? あんたが」
秋田の眼差しは相変わらず冷ややかだった。山陽はめげずに食い下がる。
「お前の眼から見て、だよ」
「うーん…」
秋田が何を思い出しているのか分からない。山陽はコーヒーカップに口をつける秋田をじっと見る。今更だが、俺の分のコーヒーはないのか、と訊きたくなる。
「イライラしてたと思う」
「……は?」
「あの二人って、全然違うから。東北がイラついてるように見えたかな」
考え込む秋田が、今はそう思っていないことに山陽は気付く。今もそう思っていて、そんな言葉を言う人間ではなかった。山陽は自分の恋心が知られていることを了解した上で秋田に助言を求めていた。
「上越は…」
山陽はぼんやり上越の名前を呼んだ。自分が上越のことを語る前に秋田の話を訊きたかった。
「あの子は、さびしがり屋だから、」
「……うん」
「人の感情に敏感な人だとダメになるよね」
秋田の言葉が山陽には理解できなかった。普通に考えれば人の感情に敏感で、賢くて、上越の言いたいことや考えていること、不安全部を掬いあげることができる人が恋愛には相応しい。上越はそういう完璧な人間を選ぶべきだと山陽は今でも思っている。どんな人間に対してだって優しくて聡い人間の方が上手くやれる、気を遣う人間はどこへ行っても重宝される。上越みたいな口にしないくせに他人への要求の多い人間は特にそうだと思った。
「なんで」
理由を訊ねようとした山陽に、秋田は誤魔化すように笑った。それが東北なのか、と山陽が訊く前に、長野と東海道が戻ってきた。
ベッドの上に横たわった女性の裸体を見下ろして口元を緩める。彼女とは数週間に一度こうやって会う、セックスをしていて愉しませ方を分かっている人だと思うし、余計なことを言わないから楽でいい。
「またね」
そう言って彼女が眠っているうちにシャワーを浴びて服を着替えてホテルを出た。彼女は僕の白雪姫じゃない。空は朝の訪れを告げている。
北陸新幹線の開通に最後まで消極的だったのは上越先輩だった。東海道先輩は上の決定には逆らわない人で、東北先輩は自分と無関係なものに驚くほど興味を持たなかった。東海道先輩みたいな人が世間的には賢いと言われて、東北先輩みたいな人が気付いたら周囲より取り立てられる人なのだろうと思った。彼は余計な主張は一切せずに与えられた仕事を黙々とこなす。それにミスが少ない。二人を見ていると、子どもだった自分の目にも世の中の仕組みが分かりやすかった。
山陽先輩は何を考えているのかよく分からない人だった。明るく笑っていたかと思えば、次の瞬間には誰のことも寄せ付けない空気を身に纏っている。あの人を見ていると、笑顔というのは人を拒絶するための道具なのだと思う。誰にでも愛想良く笑って、お前は他の人間たちとも同じだよ、だからこれ以上、自分だけが特別だと思って俺に近づいたりしないでくれ、そう言って床に水平にロープを張っているように見えた。進もうとすれば足元をすくわれる。自分から誰かのことを傷つけたりはしない、むしろ穏やかに受け入れて、受け入れられた人間を、本当は自分は受け入れられていなかったのだと気付かせる、そういう人だった。誰にも心を許していないように見えた。
そんな山陽先輩が、上越先輩の前だといつも笑っていた。上越先輩はそれにいつも素っ気なかった。山陽先輩が受け入れる振りをするのに比べ。あの人はそもそも誰のことも受け入れていないことが丸分かりだった。優しいのは子どもとお年寄りに対してだけで、その他のものとは平等に距離を取っていた。人を寄せ付けない人間の持つ、清らかさと慎みがあった。他人に何かを要求することをしない人だった。それは彼が既にたくさんのものを諦めてきたからなのかもしれなかった。
当然、上越先輩は僕に対しては親切で優しくて、よく面倒を見てくれた。東海道先輩がいるところでは何も言わなかったけれど、東海道先輩がいないとき、困っている僕を助けてくれたのはいつも上越先輩だった。泣き喚いた僕を慰めるのは、東海道先輩より上越先輩の方がずっと上手かった。
何を感傷に耽っているのだろう。昨晩の楽しみに浸るでもなく、未だ姿を見せない同僚との過去を思い出している。
自嘲しながら、自分の机の引き出しを開けてボールペンを探す。いつも使っているペンが見当たらない。堪らなくなって引き出しの整理整頓を始めると、秋田先輩が通り掛かった。
「大掃除中?」
「おはようございます。ペンが見当たらなくて…あ、あった」
ペンが転がっていた引き出しの奥には、昔の自分の宝箱があった。東海道先輩にもらったICカードから始まって、その小さな箱にいろんなものを入れたり出したりしていた気がする。箱が小さくてたくさんのものが入らなかったという理由の他に、自分は一つ以上のものを大切にし続けられない悪癖があった。
最後には何が入っていたんだっけ、まるで違う人間の行動を確かめるように箱を開けると、コンビニでも買えるようなキャンディーが一つ残っていた。
*
転んで傷だらけの膝を見ていると、じくじくと痛んでくる感じがした。僕は目に涙を溜めて大声で泣き叫ぶ。今思うとみっともないけれど、当時の僕はそれが当り前のことだと思っていたのだ。痛いから泣くということが。
「長野、おい、」
東海道先輩が自分の名前を呼んでいる。今泣き止んだらもっと痛みがひどくなるんじゃないかって思う。だから僕は泣き続ける。それに、本当に痛いんだ。見ているともっと痛い。転んだのは自分が躓いたからで、誰も悪くないのだけれど、泣かずにはいられない。
「東海道、もうちょっと頑張ってよ」
秋田先輩にバトンタッチして、秋田先輩が僕の頭を撫でようとする。秋田先輩はすごく優しい人なのに、今の僕は素直になれなくて、秋田先輩の手を振り払う。
「どうしよっか…?」
秋田先輩が東海道先輩を振り返る。二人は顔を見合わせていて、僕は泣き止もうにも泣き止めない。迷惑を掛けてしまっているのは分かっているのに、ただ泣き続ける。
東海道先輩が腕組みをしていると、上越先輩が部屋に戻ってきた。
「なに泣いてるの? あ、転んじゃったんだ?」
上越先輩は部屋の入り口で泣いていた僕の視線までしゃがんで、僕の膝を見る。顔が近くてびっくりして、僕の涙は引っ込んだ。痛そうだね、と呟く。僕の傷を見ようとして伏せられた睫毛がすごく長い。僕はそれを見ているうちに、上越先輩ってやっぱり綺麗な顔をしているなあ、なんて思ってしまった。そう思ったら、もう泣けない。
「おいで、手当てしてあげる」
立ち上がった上越先輩に手を引かれて、僕は上越先輩の椅子に座らされた。普段上越先輩が座っている椅子だと思うとなんだかどきどきした。
「上越だったら泣き止むのか…」
「まあまあ」
東海道先輩の言葉は事実だから僕は何も言えない。秋田先輩がそんな東海道先輩に、いいじゃない、と言っている。
上越先輩は机の中の1番上の引き出しから絆創膏を取り出して、僕の膝に貼ってくれた。
「まだ痛い?」
僕は涙目のまま、上越先輩を見上げてこくんと頷く。痛いけれど平気です、と言おうとした。
「痛いのに我慢して、いい子だね」
ぽんぽん、と頭を撫ぜられて、上越先輩のてのひらの下で僕は真っ赤な顔をしてしまった。我慢は全部、上越先輩にいい子だと思われたくてやったことのように思えたし、その前の自分は泣き叫んでいて我慢なんかしていなかった。恥ずかしい。こんなに優しくてきれいな人の前で、子どものままずるいことをしてばかりの自分は、この人の向かいにいる価値なんてないと思う。構って欲しくて泣いて、構って欲しくて泣き止む。
「じゃあ、ご褒美をあげよう」
上越先輩は机の2番目の引き出しを開けてキャンディーをくれた。自分の手のなかに落ちてきたそれを、僕が食べてしまえるわけなどなくて、大切に大切にしまっていた。
*
五年以上前にもらったキャンディーを大切にとってある自分と今更向き合うこともできなくて、キャンディーを戻す前に箱に入った小さな紙に気が付く。こんなところにあったのか、どこへやったのかと思っていた。懐かしい、それは一枚の切符。印字されている駅名を見つめて、箱に蓋をして元に戻した。
あの頃食べていたらこのキャンディーはきっと甘かったに違いない。今ではこの切符の悲しみが伝染って、もう食べられない。
*
4年くらい前、上官室に戻る途中、上越先輩が線路に落ちたのを目撃した。上越先輩の姿はもうこの廊下の窓から見えない。僕は驚いて、誰かに知らせなくちゃと思って、東海道先輩と待ち合わせていた上官室に駆け込んだ。中にいたのは山陽先輩だけで、
「上越先輩が線路に…」
と、伝えた瞬間いつもはだるそうに足を組んでいる山陽先輩が上官室を飛び出していた。待ってください、と言って追いかけても山陽先輩は廊下を走って行ってしまう。
息を切らせて新幹線のホームにたどり着くと、上越先輩はすぐに僕に気付いてくれた。
「あ、長野」
「上越先輩!」
上越先輩が元気そうなので安心していると、山陽先輩に肩を掴まれてしまった。
「おい長野、俺を素通りか?」
そう言う山陽先輩は笑っている。
「山陽先輩、お疲れさまです!」
取り敢えず挨拶をすると、山陽先輩は笑ったままだった。自分の答えは何か間違っていただろうか。この人が上越先輩を助けてくれたのだとしたら、もっとお礼を言うべきだろうか。そうだ、まずは詳しい話を聞こう。
「誰が挨拶しろっつった」
手を離してくれたので、僕は心おきなく上越先輩に抱きついた。先輩はよしよしと頭を撫でてくれる。
「大丈夫でしたか?」
「うん。なんともないよ」
そう言って上越先輩はにっこり笑う。
「心配してくれてありがとう」
柔らかい声でお礼を言われて、何もしていないくせに僕はくすぐったくなってしまう。
「子どもが線路に降りちゃったから助けようと思って。列車が来る前で良かった」
「上越先輩。気持ちは分かりますけど、危ないのは良くないです」
上越先輩を見ているとたまに不安になる。犠牲的精神を持っているわけでもないのに、自分のことを二の次にして、目の前の事件に飛び込んで行ってしまう人だ。上越先輩の判断が合っているのか間違っているのか、全部を把握していない自分には分からないけれど、上越先輩が事故に巻き込まれてしまったら大変だ。
「ふふ。長野はきっといい男になるね」
上越先輩の言葉の意味が、僕にはよく分からなかった。上越先輩は笑って僕の頭を撫ぜている、こんなのいい男扱いじゃない。ずっと先の話じゃなくて、今、いい男だと思って欲しいのに。
でも、山陽先輩の目が点になっているのは面白かった。
「そうだ、長野。二時半に東海道に呼ばれてたでしょ? 行かなくて平気?」
「あっそうでした!」
すっかり忘れていた、それどころじゃなかったのだ。東海道先輩も説明すればきっと分かってくれるだろう。
「行ってきます、上越先輩、山陽先輩、それじゃあ!」
時計は35分を少し過ぎたところだった。急いで戻った上官室に、東海道先輩はまだ来ていなかった。代わりに秋田先輩がいて、僕にもお茶を淹れてくれた。
「お疲れさま。はい、どうぞ」
「ありがとうございますー」
秋田先輩は優しい。温かいお茶を飲んでいると心が落ち着く。上越先輩に何もなくて本当に良かった。上越先輩が怪我をしてしまったりしたら、すごく嫌だ。ついこの前自分が転んで膝が擦り剥けて血が出ただけで、あんなに痛かったんだ。青い痣を見るのも悲しい。
「東海道先輩、どうしたんでしょうか」
「何時に待ち合わせたの?」
「二時半です。今日は、外国の鉄道のお話をしてくださるんだそうです」
「へえ、面白そう。僕も聞こうかな」
秋田先輩は、そうだ、今日わたしの部屋で鍋をするからおいでね、と誘ってくれた。その後待ち合わせの時間から10分遅れて東海道先輩が来た。急な会議に呼ばれていたこと、遅れてごめんなと謝ってくれた。僕はちっとも東海道先輩を責める気はなかったし、そんな風に謝ってくれる東海道先輩は良い人だと思った。
東海道先輩はいつも忙しくて大変そうだ。与えられた仕事を断らないから、らしい。東海道は真面目だからね、と上越先輩は言う。そんな上越先輩だって、仕事には真面目だと思う。
( 少しして僕が気付いたこと。山陽先輩といるときの上越先輩は、僕や他の誰かが近づくとすぐにそっちの人に気付いた。山陽先輩といるときには上越先輩はひどく緊張しているからだ。全身の毛を逆立てた猫みたいに緊張してる。
山陽先輩といるときの上越先輩は、山陽先輩に気を遣わずに僕を構ってくれていた。それは山陽先輩とは信頼関係があったからじゃなくて、山陽先輩と他の人がいるとき、どんな風に話したらいいか分からなかったからなんだと思う。二人きりでいても、どうしたらいいか分からなくなるくせにね。あの人ほんと可愛いよね。 )
その日の夜、秋田先輩の部屋での鍋に上越先輩は来なかった。
「上越先輩、来ないんですか?」
「うん、今日は早く寝るって」
秋田先輩はそう教えてくれた。僕は鍋が終わった後、秋田先輩と一緒に上越先輩の部屋にきりたんぽを持って行ったのだけれど、上越先輩は部屋から出て来なかった。
「寝てるのかな」
「……」
「明日持ってきてあげよう、ね?」
沈んだ顔をした僕に、秋田先輩は気を遣ってくれた。
*
次の日上越先輩はいつも通りだった。少なくとも僕の目にはそう見えた。その後暫くして、秋田先輩と二人でお茶をしていたときのこと。最近刺繍に凝っていると言う秋田先輩が指に針を刺した。秋田先輩は自分の机を漁った後、ないなあ、と呟いた。
「長野、絆創膏持ってる?」
「すみません…」
「誰か持ってないかな」
「あ、上越先輩なら、たぶん」
以前自分が怪我をしたとき、絆創膏をもらったことがある。そうね、と言って秋田は長野の隣に来て何のためらいもなく机の引き出しを開けた。僕はちょっとぎょっとしながら、けれど付き合いが長いとそんなものなのかな、とも思った。
「何番目だったかなー」
一番上の引き出しを開けると絆創膏はすぐに出てきた。
「二番目はキャンディーが入っていました」
僕は思い出して嬉しくなる。
「へえ…」
そう言って秋田先輩は三番目の引き出しを引っ張った。ガチャガチャ音を立てるだけで、引き出しは引かれない。
「鍵掛かってるわね」
「秋田先輩、何してるんですか…」
「興味本位」
目的物を見つけた今も探索を続ける秋田先輩に、僕は苦笑する。秋田先輩は諦めてソファに座る、僕もその隣に座った。
「あの子って自分のこと何も話さないから。分からないのよねえ…」
「……」
「子どもの目から見て、どう?」
試すような秋田先輩の目、嫌な感じがした。いつもの秋田先輩はもっと感じが良い人なのに。なんで、わざわざ子どもって言うのだろう。そりゃあ、子どもと大人に見せる顔があんなに違う人はそういないのだろうけど。
「自分を見せられない、不器用な人だと」
僕はそれ以上何も言わなかった。どんなに上越先輩が綺麗で優しくて自分の目に美しく映っているか、特別かを語れば嫌がるのは上越先輩だと知っていた。それに、秋田先輩はそんなことを訊いたんじゃない。
「そう」
秋田先輩は、もう刺繍には飽きたようだった。
*
その2年くらい後。
一人で部屋に戻ると、上越先輩と入れ違いになった。
「上越先輩、こんにちは」
「ああ、長野! 僕ちょっと会議に行くから、あと宜しくね」
「はい、行ってらっしゃーい」
上越先輩を見送って開けっ放しの窓辺に立つ。窓を閉めると、上越先輩の机の引出し、3番目に小さなキーホルダーが下がっていた。鍵だと一目で分かる。
好奇心に逆らえなかった。
気が付いたら引き出しを開けていた。引き出しを開けた後、僕は自分がなぜ引き出しを開けずにいられなかったか、その理由を知った。入口ですれ違った上越先輩と僕は、ほぼ背丈が並んでいた。
引き出しの中には、新大阪から博多までの区間の切符があった。逆区間のものや、新大阪から姫路までのもの、新倉敷までのものもある。きれいな名前の駅ばかり集めているのがあの人らしいと思った。あの人には、きれいなものがよく似合う。
集めているんだ。そうとしか思えなかった。山陽先輩が上越先輩に、こんな贈り物をすることは考えられない。
あの人は、自分が乗りもしない新幹線の切符をこんなに集めて何を思っているのだろう? 鍵を掛けて大切に、何枚も、何枚もしまい込んで。昭和47年3月15日、大阪から岡山までが開通した日の切符まである。どうやって手に入れたのだろう。
少なく見積もっても100枚は散らばっている。乗るつもりだったのだろうか、いや、そんな暇はないだろう。だからこうして使うつもりのない切符を集め続けているのだ。
――そうして、会議の時間も忘れるくらい、一人の部屋で思いに耽って?
一番上の切符の有効期限は昨日までだった。僕はその切符を自分のポケットにしまった。
秘密を知ろうとした罰だ。僕は自分の恋が永遠に叶わないことを知ってしまった。僕は上越先輩の机から離れた。雑然としていて、絆創膏やキャンディーがしまわれているこの机。鍵を掛けた空間の向こうには、彼の秘密が眠っている。
*
仕事を始めると、やっと上越先輩が出勤してきた。
「おはよー」
「遅い!」
イライラした東海道先輩に怒鳴られても、上越先輩は、先にホームを見てきたんだよと悪びれない。東北先輩は書類を茶封筒に詰めると暇そうに新聞を読んでいる。上越先輩が東海道先輩の相手を放棄してソファに座ったところで、山陽先輩がやって来る。
「おーい、中央線がまた停まったぞー」
山陽先輩の報告に、みんなまたかという顔をする。これが自分の路線なら各々対策を急ぐだろうに、常習犯の路線には冷たい。
「僕、見て来ましょうか」
こういう仕事は下っ端の役目だ、山陽先輩も同伴してくれるあろう。席を立ってデスクを離れる。立ち上がった上越先輩に手招きされた。
「何ですか?」
「襟」
上越先輩は僕の詰襟のホックを止めてくれた。白い人差し指が自分の首を掠める。指先を、捕まえてしまいたい。
「ありがとうございます」
「…あ、うん。行ってらっしゃい」
不自然に声に力が入っている。お礼を言っているのに目が合わない。それでも、この人に目を逸らされると、目を見つめられるのと同じくらい、どきどきする。上越先輩は東北先輩のところに行ってしまった。
僕は、どうしたのかなと思いながら、山陽先輩の後に着いて行った。
「長野は偉いなー、って、もう北陸か」
「どっちでもいいですよ、呼び方なんて」
「お、さすが色男。器がでかい」
「なに言ってるんですか」
僕が苦笑いをすると、山陽先輩は首筋を人差し指でとんとん、と叩く。
「ココ」
「…あ」
思い当たる節がないわけではない。ああ、上越先輩に見られちゃったな。そう思うと後悔する。自分はこの恋が叶わないことを知っているのにまだ諦め切れていないのだなと気付かされる。案外自分は執念深いのかもしれない。今なら秋田先輩が自分のことを考えて、諦めさせようとしてくれていたのがよく分かる。あの人は本当に優しい、それは自分にとっては無駄でしかなかったのだけれど。
前を行く山陽先輩の背中を見つめながら、山陽先輩は、上越先輩の机の引き出しのなか、上から三番目の秘密を知っているのだろうかと思った。知らないんだろうな、二人がもう互いの思いを伝え合っていたとしても。上越先輩の性格から考えて、あんなの、打ち明けるはずがない。僕だけが、その秘密を知っている。
知っていたら嫌だな。あんなに可愛いひとを、知っているのは僕だけでいい。それなら、秘密を知るのと引き換えに失ったものを仕方がないと思えるから。
上越先輩、僕はまだあなたのことが好きです。
「東海道先輩~!!」
長野が泣きながら上官室に駆け込んできて、幸か不幸かそのときその部屋にいたのは自分だけで、俺は面倒だなあと思いつつ仕方なしに話を聞いた。こんなのトラブルがあったに決まってる。
「長野、どうした?」
「上越先輩が線路に!! おっこっちゃっ…」
泣きじゃくる長野の前を素通りして、気が付いたら部屋を出ていた。
「ホームだな?」
「は……あっ待ってください山陽先輩!」
――待ってられるかこの状況で!
俺には長野の悲鳴を聞いてやる心の余裕などなく、廊下を走ってホームに向かう。線路に落ちるような状況を考える。誰かに突き落とされたか(あいつ方々で恨み買ってそうだからなあ)、うっかり足を踏み外したか(ああ見えてあいつ、抜けてるからなあ)、何かの事故に巻き込まれたか(人身事故マジ困る!)。線路に落ちた結果の人身事故、という言葉に行きついて、そこから先は何も考えられなくなった。人身事故。その四文字が俺の視界を真っ暗にする。
顔パスで改札を通過して、階段を駆け上ってホームに着くと、ちょうど上越新幹線の発車時刻だった。明るい世界のひときわ明るい場所で上越が、にこにこ笑って車掌に手を振っている。笑顔のせいで眩しいのかもしれない。
発車音が鳴り響いて、上越新幹線が走り去る。上越が長い髪を耳に掛けながら、やっと気付いたようにこっちを見た。発車直後の新幹線のホームには二人きりだ。
気付いてくれたのが今で良かった。10秒前の自分は上越の幻影に囚われて、人前に出せないくらいみっともない顔をしていたから。
「お客さん、一歩遅かったですね」
次の便は14時52分発、Maxたにがわ415 号です。
時刻は14時32分。とき327号が発車したところだった。乗客にでも言うように綺麗な声でアナウンスして、上越は笑う。ホームにこんな駅員がいたらきっと乗客も増えるのに、からかわれているのにそんなことを考える自分は本当にめでたい。今度一日駅員やろうぜって提案してみようかなと思う自分の脳みそはまだ正常に機能していないんだ。ふざけてばかりの上越に文句を言うこともできないなんて、これじゃあ俺はただのアホだ。
「…長野に、落ちたって聞いて…」
「ああ。子どもが線路に降りちゃってね、それで…」
冷静に答える上越から、自分の選択肢になかった答えを聞かされた。
「僕も降りて、ホームに戻してあげたの。降りたとこだけ見たんじゃない?」
降りたところが落ちたように見えるだろうことは想像に難くない。上越の言葉には説得力があった。
そう言うと上越は、俺の背中越しにまたよそいきの笑顔を作ってひらひらと手を振る。おいおい誰を見てやがんだ、目の前に俺がいるだろちくしょーと思いつつその視線の先を見ると、奥で東海道線に乗る少年が手を振っていた。小学生くらい、あいつがそうか。なんて人騒がせなガキだ、と俺は深い溜息を吐いた。今更、久しぶりの全速力で胸が苦しい。
「上越先輩っ!」
今頃到着した長野に、お前最後まで見てから来いよ、と文句を言ってやりたいようなそれも大人げないような、つまり何を言っても負けな気がする敗北感を背負って曖昧な視線を向ける。
おそらく長野はホームからではなく、上のフロアから見ていたのだろう。それで大慌てですぐ近くの上官室に駆け込んできた。その状況判断はとても正しい、長野が駆け付けたところでどうにかできるわけがない。呼んでいたのが東海道の名前だったことは不問にしておいてやってもいいくらい、正しい。
「あ、長野」
「上越先輩! 無事でよかっ…」
「おい長野、俺を素通りか?」
思わず肩を捕まえてしまった。上越に駆け寄ろうとした長野は俺を見上げている。
「山陽先輩、お疲れさまです!」
「誰が挨拶しろっつった」
どうも話が通じなさそうだ。状況が状況だけに、上越しか見えていないこいつに俺と話す気があるとは思えない。長野は普段から上越しか見えていないんじゃないかと思うときがある。東海道のこともまあ、見えているんだろう。
そもそも子どもに対して情報は正確に、きちんと見てから報告しろ、などと指導したところで効果はまったく期待できない。ああ、なんて大人な俺。子どものすることだし許してやろう。(あ、さっき肩を捕まえたことは保留で)そう思って手を離すと長野は上越に抱きついた。あ、前言撤回します。
「大丈夫でしたか?」
「うん。なんともないよ。心配してくれてありがとう」
――えっちょっと待って、俺には?
俺だってさっき心配して駆け付けたんだけど。なりふり構わず階段駆け上ったんだけど。多分人間とすれ違ったけど覚えてないし、周りの景色なんて一枚も思い出せないくらいに俺は必死だったんですけど。
なんてそんなの、言えるわけない、カッコ悪い。いや、カッコよく言えばいいのか?
「俺が勝手に心配しただけだから、気にすんな」
おお、こんなこと言えたらカッコいいかも俺!
「いや、君に言ってないし」
脳内でちっとも可愛くない上越に言い返されて、俺は会話に混ざる努力を諦めた。リアリティに溢れた自分の想像力がこういうとき邪魔だ。夜はあんなに便利なのに。っていやいや、今はそういう話じゃない。
現実に戻ってくると、目の前では、お礼を言われて嬉しそうに、えへへと笑う長野の頭を上越が優しく撫でている。しゃがんであのポジションに収まりたいとは思わないけれど、今の自分の立ち位置寄りは遥かにマシだと思う。なにこの半端ないアウェー感。俺一応一番手よ? 一着よ? ここが新大陸だったら間違いなく俺の領土よ?
子どもや老人に上越は優しい。いや、自分だって優しくないとは思わないし、他の連中だって老人子どもに優しいことは優しいが、こんな風に笑う上越を他にどこで見られるんだっつー話です。ああもう、お前のポケットに入ってるカメラを今すぐよこせ、お前の笑顔でメモリーカード埋め尽くしてやるから、なんて、そんなこと言ったら俺本気で気持ち悪い! 寒い! きっとこの寒さは冬だからですよね?
そんな俺の脳内会話をよそに、二人は仲良さそうにしている。
「長野はきっといい男になるねー」
――ええええお前何言ってんの!? なに言っちゃってんの!? そんなこと言うとこのガキ絶対期待するぞ! 取り敢えず長野、お前一旦場所変われ。
さすがの俺も目が点になった。近所の綺麗なお姉さんよろしく長野を可愛がる上越。将来的にいい男になった長野(北陸)ならお前は受け入れるっていうのか!? なあおい! その前に俺を受け入れてくれ! 2014年まで待たなくたって俺がいるだろ。
こいつはなんだってこんなに俺をハラハラさせるのか。線路にいようがいまいが、俺はどのみち落ち着かない。手足を縛って二人だけの部屋に閉じ込めて、今から死ぬまで見つめ合えば十年後には少しは落ち着くのだろうか。いや、もっと落ち着かなくなっているんだろうな。
「2時半に東海道に呼ばれてたでしょ? 行かなくて平気?」
「あっそうでした! 行ってきます、上越先輩、山陽先輩、それじゃあ!」
この騒動ですっかり忘れていたらしく、長野は時計を見て焦る。名残惜しそうにしながらも、ぱたぱたと走って行った長野にやる気なく手を振って見送りながら、あの足じゃ俺についてこれるわけねーなあと思った。自分がどれだけ本気で走ったかは覚えていないけれど。
あ、やっと二人きりだ。そう思って隣の上越を見る。
「山陽も行ったら」
「……」
長野がいなくなった途端、上越は愛想笑いをやめた。隣にいる男なんかどうでも良さそうな目で俺を見てる。どうでもいい男って、そりゃあ言うまでもなく俺です。何だろう、この態度の落差。俺の前ではありのままの君でいてくれるんだ!とかそういう喜び方をしてもいいけれどそんなことしたら絶対痛い。というか俺はそこまで頭の悪い男になれない。
「俺は東海道に呼ばれてねーもん」
「暇なわけね」
「お前はここで何すんの」
実際この時間は忙しくない。上越の皮肉に聞こえない振りをして訊くと、上越は不愉快そうにする。
「君に関係ある?」
「そういう顔すんなよー興奮するから」
「間もなくMaxたにがわ412 号が到着致します。線路に降りてお待ちください」
「ちょ、お前それ、どういう意味…!」
線路を手のひらで示した上越の冷笑と、今すぐグチャグチャになって死ねという言葉と同義語の冷たい台詞に俺がムンクみたいに顔を歪めると、それがおかしかったのか上越は笑った。
「冗談だよ」
「だよな…」
それを心配して駆け付けた人間に、その仕打ちはいくら上越でもないと思ってたよ、と俺は胸を撫で下ろす。
「だって、人身事故起こされたら困るもん」
「いやちょっと待って、そういう問題!?」
俺の命より遅延とか損害とか遅延の方が重要なんですか、お前にとって。まあ訊くまでもなく、重要だろうな。2時間以上遅延すると払い戻しだしね。北陸新幹線が開通すれば赤字路線に転落すると言われている上越相手にそれは酷だ。
「で、君何しにここに来たんだっけ?」
時計から目線をこっちにくれたと思ったら、一番最初にした質問に戻った辺り、こいつは俺の答えを覚えていない。始めにちゃんと言ったのになあ、長野にはお礼言ってたのになあ、なんで俺は流されたのかなあ。ってどうでもいいからですね、分かってます。
「線路に落ちたって言うから心配したんだよ」
「それであんな走ってたんだ」
――お前、さっき何も言ってなかったくせに、それ…!
見られてた! 嫌だそんなの恥ずかしい、こいつどこから見てたんだ!? 俺がなんて返すべきかを迷って無言で頭をフル回転させているというのに、上越は爽やかに会話を続ける。
「ごくろうさま。無事は確認できたでしょ?」
「あんまり危険なことするなよ」
「君こそね」
全速力で疾走とか、下手をすれば乗客を事故に巻き込みかねない。上越に言い返す言葉がない、ああ、カッコ悪いなあ俺。どこから見てたんだろ、って、そんな見てもいねーんだろうけど。上越が自分に帰れと言いたげなのには、気がつかない振りをする。
「人たくさん来るし、僕、次の車掌に用事あるから残るよ。また後でね」
いよいよ本気で、いい加減帰れと言われた気がして俺はつまらない世間話を投げかけようとするのをやめた。今ここで、秋田がきりたんぽ持ってきたから後で食おうぜ、と言ったって上越には無視されるか、仕事の邪魔をするなと言われるんだろう。この歳になると諦めが良くなってしまって困る。割り切った妄想か夢の中でしか自由になれない。見返りを求めるのが辛くて、一人で相手を想うことで満足することに馴れてしまっていて。
長野のように、泣きながら上越の無事を願うこともできない。
「そうだな、邪魔して悪かった」
ちょうど上越新幹線がやって来て、音が何も聴こえなくなる。俺は上越の足元を見つめた。別れ際に言葉を掛けてもらいたい自分にはこういう離れ方の方がずっと良かった。俺は一度も振り返らずに、新幹線のホームから離れた。そうして、暗い世界に戻っていく。
――俺はちゃんと笑えてたかな、ああでもそんなの、あいつはきっと気にしていない。