「あー今日さむーい」
「おい、上越、お前…!」
制服に着替えて出社した上越に東海道は詰め寄った。きょとんとして上越は、胸倉を掴まれたまま抵抗せずに東海道を見る。
「おはよ、東海道。なに?」
「これはいったいどういうつもりだ?」
背後のデスクを指差して上越を睨み付ける。東海道の肩越しに上越はひょいと自分のデスクを覗いた。
「あ」
机の上に積まれた小さな箱の山、誰かが積み木遊びをしていたのではないかと目を疑いたくなる。それくらい完璧にタワーが出来上がっている。上越は苦笑いで自分の机の上を見た。今まで何人が届けに来たのかは分からないが、東海道がそのうち何人かの相手をしただろうことは想像に難くない。
「あー…片づけた方がいい?」
「当たり前だ!」
「じゃあ、手ぇ離して…」
「失礼します、上越さまにお荷物をお届けしました!」
ノックの後に入ってきたのは郵便局員。上越はさっと東海道の手を振り払うと、ドアを開けた郵便局員のところへ行って印鑑を押した。局員が段ボールを上越のデスクまで運ぶと、上越は笑顔で礼を言った。
「ありがとう」
「失礼します!」
顔を真っ赤にした郵便局員を見送って上越は手を振る、東海道は増えた荷物と局員の反応に、その背後で憤っていた。
バタン。
「上越っ!!」
「はいはい、分かってますー片付ければいいんでしょ」
上越はデスクの上を仕事のできる状態にしようと、机の中から段ボールを出して郵便局員が運んできた段ボールの上に重ねると、チョコレートをしまいだした。
「そういうことを言ってるんじゃない、これはいったいどういうことだ?」
「……チョコでしょ」
上越は、いったん手を止めて、なんともいえない小馬鹿にした眼差しを東海道に向けた。今日が何日だと思っているんだ、と呆れかえっている。
ただいまー、と戻ってきた秋田と東北が、二人を遠巻きにしてソファに座った。
「今日14日だよ、大丈夫? 君の家、カレンダーある? 今度手帳買ってあげようか」
「それくらい俺だって分かってる! なんでお前にこんなに大量のチョコが送られてきているんだ、去年の倍だろう」
東海道は何も載っていない自分のデスクをばんばん叩いて主張した。それを見て上越が腕を組む。確かに言われてみれば、午前10時のこの時点で去年の倍は贈られてきている。この1年で急激に女性人気を獲得するような何かがあったわけでもない。
分からないことを考えるのはやめにして、上越は溜息を吐いて凶悪な笑みを浮かべる。秋田はその微笑みにぞっとしながら見ない振りを続けていた。
「なんだ、やきもち?」
その見下したものの言い方に東海道は声にならない怒りを覚えたらしく、肩を震わせる。
「上越お前っ…!」
「え、否定しないの」
からかっていただけの上越が目を丸くすると、東海道は顔を真っ赤にした。
「上越」
「なに?」
上越に声を掛けたのは東北で、秋田はぎょっとして東北を見る。どうして安全なところにいたのに竜巻に突入していくのか、秋田には理解できない。地味なくせに東北は案外トラブルメーカーだと秋田は睨んでいる。
東北は上越を手招きした。上越が東北に近寄って行く。放って置かれた東海道は気の毒に、何も言い返せないまま呆然と上越を見つめている。
「なに」
「口開けて」
「ん」
そう言ったくせに上越が口を開ける前に、東北は持っていた小箱を開けて口にオレンジのチョコがけを1枚くわえさせてやって、親指についたチョコを舐める。普段淡白な人間がするいやらしい仕草に秋田は、二人で部屋に戻ってきたことを激しく後悔した。なんで自分まで赤面しなければならないのだ、巻き込まれていい迷惑だと思ってしまう。東北の仕草はそれくらい色気があった。東海道はひたすら絶句している。
「おいしい! どうしたの、これ」
「さっきもらったんだ。お前、逆チョコ欲しいって在来の誰かに言わなかったか」
「ああ、言ったかも」
上越は美味しそうにチョコを食べている。
↓
「あーチョコ食べたい。買おうかな」
NEWDAYSで上越が仕事の合間に甘いものを物色していると、東海道ジュニアが通りがかりに上越を見つけた。周りに誰もいないことを確認した後、店に入ってくる。
「どうしたんですか、上越さん」
「あっジュニア。や、ね、チョコ買おうかと思ってね」
「どれが欲しいんですか?」
チョコと同じ目線まで屈んで真剣に悩んでいた上越が可愛いのか、ジュニアは幸せそうな笑顔を浮かべて上越を見つめている。チョコレート一枚で真剣に悩むこの人は子どもみたいだとジュニアは思う。
「明治の復刻版…やっぱり赤が可愛いよね?」
黒色、茶色のパッケージを素通りして赤とにらめっこをしている上越に、ジュニアは胸が高鳴るのを堪えた。
「あ、赤は誰かさんの色だね」
良いことを思いついたように上越はジュニアを見上げて、これ以上ないくらい可愛らしい笑顔を浮かべた。
(かわいいかわいいかわいいかわいいかわいい)
何度念じても可愛さは減らない。ジュニアは心臓を打ち抜かれたくらいの衝撃を受けて胸を押さえながら、上越の手から明治の板チョコレートを奪った。
「プレゼントします」
「え、なんで。いいよ!」
立場を弁えて遠慮する上越に(もしこの場に東海道がいれば、珍しい!と声を上げただろう)、ジュニアは、いいから、と制してレジに持って行く。
「どうぞ」
店を出てからチョコを渡すと、上越は嬉しそうに受け取った。
「ありがと! ジュニアはいいこだ」
「いえ、今、逆チョコも流行ってますし……」
「ああ、逆チョコねー。女の子がもらいたがってるってアンケート出してたね。うちももっと乗客にアンケートを徹底する必要があると思うんだよね…」
と、仕事の話をしてしまった上越は、ジュニアが黙り込んだのに気付いてすぐ話をやめる。
「ごめんごめん。ありがと、これ逆チョコ?」
「……えっ」
「あれ、違うの」
上越は何も考えていなさそうに、違うのかーあはは、今日13日だしねえと言って笑い飛ばしてしまう。ジュニアは何をどう言えばいいのか分からなくなってきて上越の前で言葉を探した。
「あの」
「ん?」
「上越さんは、その…」
「なーに?」
「逆チョコもらったら、受け取る、ん、です…か…」
決死の覚悟を決めたジュニアの質問に、上越は、腕を組んで考える。
「そだね、5000円以上のチョコだったらもらってもいいかも」
サディスティックな言い方に、ジュニアは不覚にもどきりとしていた。いらないよ、そんなの悪いもんと優しい笑顔で言われるより価値がある。上越のような人間は、彼と接することができる人間にとてつもない優越感をもたらすのだ。そのブランドイメージとも言うべき彼の品質を保持するには、贈るチョコレートは5000円以上でなければいけない、それは寧ろ指摘される以前からの常識に思えてジュニアは納得していた。そんな彼らのやり取りを通りすがりに見た他の同僚たちも。
↓
上越は何気なく言っただけだったのだが、その言葉はJR駅構内を掛け巡り、さらに路線を伝って今や日本最北端まで到達した―――その結果が、上越の机上の現況である。
「欲しいとは言ってないけど、5000円以上ならって」
「え、じゃあれ全部5000円以上なの!?」
秋田が甘いものへの食いつきを見せて、今までの我関せずの姿勢を覆して上越を追及する。
「えー? うん、確かに、PIERRE MARCOLINIとかJean-Paul HEVINとかDEL REYとか結構高いの多いなって思ってた…」
適当に箱にしまっているだけかと思いきや目ざとい、きちんとブランドはチェックしていたらしい。秋田はその上越の目ざとさに感心していて、すっかり置いてけぼりになっている東海道のことを思い出す余裕もない。
「なに一人サロン・デュ・ショコラやってんのよ!羨ましい!」
「あはは、秋田も食べる?」
「いいの!?」
確かに高級パティシエのチョコレートがデスク上に所狭しと積まれているのだから、サロン・デュ・ショコラ状態だ。1月末に伊勢丹で行われた今年で7回目になるチョコレートの祭典。本家パリでは10月に、120人ものショコラティエが参加し、ファッションショーのような華やかな催しを開いた。フランスのショコラを中心に、ベルギーやスイス、アメリカやイギリス、ドイツのブランドもあったのだが、残念ながら日本ではドイツの店は出展していない。
と、ドアがノックされる。
「おーす何してんの?」
チョコレートと思われる段ボールを肩に担いで仕事から戻ってきた山陽に、一同は視線を集中させる。デスクの脇に段ボール箱を下ろして、集合用のテーブルにやってきた山陽に、秋田は話しかける。
「山陽も逆チョコ?」
「は? 京都停まったときにチョコもらっただけよ」
―――そうだった……!!
と冷静に気付いたのは秋田だけだ、日本のバレンタインデーは本来、女性から男性にチョコレートを渡すものだ。推定200個以上の逆チョコが贈られてきた上越のせいで、すっかり逆チョコが主流だと思わされていた。
「おー大量だな。誰の?」
「…僕のだよ」
「あーじょうえっちゃんの! モテモテだね」
上越の顔に怒りが滲んでいたのは言うまでもない。男性ばかりの社内で女性からチョコレートをもらうこと自体が珍しいという変えようのない事実が事態をややこしくしている。日頃から京女と交流のある山陽は特別だった。
「どうすんの、それ全部お返しすんの?」
「山陽、僕に破産させる気?」
「冗談だってー。あ、東海道。なに固まってんだ、そんなとこで」
すっかり存在感をなくしていた東海道に山陽が声を掛ける。東海道は黙ってテーブルに着く。今まで黙っていた東海道のことをやっと秋田は思い出した。そういえばさっきから一言も口をきいていない、どうしたんだろうと不思議に思う。最初はあんなに上越のチョコレートを迷惑がっていたのに。
東海道はテーブルの上のティーカップを見つめたまま、上越と目を合わさずに言った。
「あのな、お前」
「うん?」
「一人で食べろよ、ちゃんと。誰かにあげたりしちゃ、だめだぞ」
上越は一瞬黙りこんで、東海道をじっと見つめる。それから目を逸らした、それは、分かりあうことを諦めたように見えた。秋田は改めて自分がこの場に居合わせるべきではなかったことに気付いて、誰かとこの思いを共有したくて東北を見る。当然、東北は自分がもらったらしいオレンジピールを食べていて何も気にしていない。山陽は複雑そうに二人を見ていた。秋田と目が合うと、山陽は申し訳なさそうにした。
上越は何も言わなかった。うつむいたまま、東海道の言葉に、承諾も拒絶もしなかった。
「昨日、お前何してた?」
ボールは意外なところから飛んできた。東海道は思い切り怪訝に顔をしかめて自分より背の高い高崎を見上げる。高崎はただ疑問を口にしただけで、何の他意もなさそうだった。もともと高崎は、誰かと違って悪だくみをするタイプではない。
「仕事だよ。有休取ってるとでも思ったか、昨日も会っただろ」
「違う、夜。上官の部屋の前で」
「え」
勤務中ではなく夜の話だったのか。東海道は言葉に詰まる。
「あ、兄貴の部屋か、お前の」
「ああ、そうだよ」
東海道は頷いた。否定する必要はなかったし、何か間違えているわけでもない。寧ろそっちの方が正しい。一人で納得している高崎を尻目に、あの足音はこいつだったのかと東海道は安堵していた。まったく、誰に見られているか分からないからおちおち他人の部屋を訪ねることもできない。自分が兄の部屋を訪れる分には何の問題もないが、と東海道は不安になる。
――そういうことに頓着しないんだろうな、と唇を緩めた。
昨日は結局、兄が戻ってくる前に上越に言付けて部屋を出てきた。何かできるはずがなかった。触れたいと思うほど触れてはいけないと強く思う、力学じみた自分の躰の摂理が不可解だ。欲望に素直になる権利は恋人たちにしか許されない。
( ねえ、どうしたの )
東海道は目を瞑った。肘をついて眠るように机に突っ伏す。声も表情も忘れられない、そんなに心配そうな顔をしないで、もっと困らせてしまいたくなる。
( …ジュニア )
そう、あの人が自分を東海道と呼ぶ日は来ない。そんなことは知っている。いつか自分を見てもらえるなんて思っていない。自分はそんなに非現実的な人間じゃない。
知らないうちに魔法に掛けられたみたいだった、手に入れられないのに諦められなくなる魔法。
*
「昨日は悪かったな。わざわざ来てくれたのに」
「いや」
はきはきと話す、聞き取りやすい兄の声。いつもより機嫌が良さそうなのは、気のせいではなかった。あのあと二人がどんな風に夜の時間を過ごしたか、恋人同士のごく自然の行為が今の自分にはひどく犯罪じみて思えた。
「沿線の駅に目を配るのも大事な仕事だ。報告助かったぞ」
「うん…」
「どうした?」
はっとする。同じ言葉の選び方をする、同じ声のトーンで言う、この二人は。東海道は頭痛を堪えるように、なんでもない、と応えた。
もともとは二人で住んでいた家に、あの人は遠慮がちにやってきた。
「こんにちは」
休みの日の突然の来訪者は、当然ながら自分に会いに来たのではなかった。にっこり笑ってよそ行きの挨拶、兄が部屋から出て来るまでの数分、今まで口をきくこともかなわなかったこの人が自分に声を掛けてくれたことに感動して立ち尽くしてしまっていた。二人は仲の良い友人だった。
ふんわり優しい笑顔で、いつも自分を見て話してくれた。上越は自分と兄とを分け隔てずに接した。感情的に部下への不満を漏らす兄を、上越は上手く宥めていた。
「そんな意地張ってても知らないから」
澄ました顔で上越が言うと、何も言えなくなる兄を見るのが東海道にはおかしかった。プライドが高くて、常に自分には非がないと信じ込んでいる兄も、こんな風に言葉をなくしてしまうことがあるんだと知った。上越は頭の回転が早い。もし本当にその気になれば、兄を完膚なきまでに叩きのめすくらいはできるだろうな、と東海道は思っていた。
三人でいると時間が経つのが早かった、そう思っていたのは自分だけなのだろうけれど。
ある日外出先から戻ると玄関に上越の靴があった。二人を驚かせてやろうと悪戯心が湧いてきて、リビングにたどり着くと誰もいない。東海道は忍び足で階段を昇って兄の部屋に向かう。ドアは薄く開いていた、中から声が聞こえてくる。
「とうかいどっ…ダメ、だってばっ…」
一瞬だけ見たそのシーンはあまりに強烈だった。ベッドの上では自分の兄が獣のように、白い躰を組み敷いている。
「やっ…」
足が動かなかった、無言の兄がことを進めていること、何度も聴いた上越の声が普段とは違う色をしていることだけ分かる。躰を繋げるときの肉のぶつかり合う音がして、東海道は自分の耳を疑った。
「あ、…ん、しつこいっ…」
「誰の所為だと思ってるんだ?」
楽しげな兄の声が耳障りだった。気付かなかった、二人はそういう関係だったのだ、一体いつから。躰を繋げて快楽をむさぼって、自分が一番綺麗でいてほしかった人が、自分の一番尊敬する人に穢されている。
「ん、やあ、もう、もぉダメっ…!」
上越が高い声を上げる。
階段を降りて自分の部屋に駆け込むとズボンのファスナーを下ろした。見てはいけないものを見た、という罪悪感の一方で、もしかすると自分はずっと見たいと思っていたのかもしれないと思った。躰を繋がれて快楽に喘ぐあの人を。
それから半年、兄とは仕事以外で口をきかなかった。
*
「こんばんはー」
「……」
予想外の客に東海道は驚いた。人の部屋に来るならまず連絡を、いやこの人にそんな誰にでも守ることのできる常識を訴えても無駄だ、と脳内で二人の自分が言い合いをしている。いや、それよりもまず先に訊かなければいけないことが。
「どうしたんですか?」
「東海道がね、ジュニアが元気なさそうだって心配してたから、来たの」
来たの、じゃないだろなんだその理由。余計なことしやがって兄さんありがとう、じゃなくて。
東海道は今日残業でね、と上越が説明してくれた。
「じゃーん! 上越特製鍋セット! 鍋しようよ、ね!」
上越は後ろに隠してあった鍋を東海道に見せる。肉と野菜を切って鍋に敷き詰めただけの料理にこんなに感動している自分は、なんて手軽な男なんだろう。悩んでいたのが馬鹿らしくなって、東海道もつられて笑う。
「秋田にきりたんぽもらってきたんだよーおいしいよー絶対!」
「あ、じゃあ、入ります?」
「わーい! お邪魔しまーす」
上越は靴を脱いで自分より先に部屋を進んで行ってしまう。人の部屋に入ることにためらいが何もないのは、この人が、人に受け入れられることに馴れているからだ。拒絶される可能性なんて考えてみてもいない。とても愛されて育ってきたからだ、今まで。そういう無邪気さや無防備さが、自分たちを惹きつける。
「わざわざすみません…」
「えー? いいんだよ、僕一応上司だからー」
こんな可愛い上司がいてたまるか!
ドアの前で悶々とするのをやめて、東海道は鍵を掛けて部屋に戻る。
「ねえコンロどこー?」
「あ、ハイハイ」
東海道は、キッチンでコンロを探している上越の代わりに棚に手を伸ばした。
「…上越さん」
「はい」
鍋の前で自分と目を合わさない上越は、自分が何を言うのか分かっている。それでもこっちを見ない上越に、東海道は呆れていた。
「言わなくても分かりますよね? 肉もちゃんと食べてください」
「えー野菜はちゃんと食べてるもん」
「だから肉ですって」
「ぶー」
拗ねた顔がちっとも年上には見えなくて本当に可愛いけれど、今はそういう場合じゃなくて。肉を取って皿に入れると、上越は文句を言った。
「あっ何してるの!」
「ははは」
「もーしょうがないなー」
――――――しょうがないのは俺じゃなくてあんただから、上越さん。
どうするのかなと思いつつ見守っていると、上越は素直に肉を食べ始めた。はは、嫌々肉食ってら、俺が皿に入れたのを。もうダメだ、この人ほんとに可愛い。
「こういうのは育ち盛りの人が食べなきゃダメなのに! ジュニアみたいなね」
そう言って肉を取ったので、自分でちゃんと食べる気になったのかと思いきや。
「はい、あーん」
「あ!?」
口の中にぽいっと放り込まれてしまった、自分が驚いているうちに。
「おいし?」
もぐもぐ口を動かしたけれど、味なんて分かるはずがない。絶対自分の顔は真っ赤だ。
もう、なんか、この人。―――人を惑わす天才なんじゃないかって。
「おいしかったです、ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
東海道がお礼を言って頭を下げると、それがおかしかったのか上越も笑いながら頭を下げた。東海道は鍋を洗おうと流しに持って行くと上越もついてくる。洗い物をしていると、することがないのか上越も傍をうろうろしていた。鍋を洗うと、
「これでいい?」
受け取って布巾で拭いてくれる。東海道は頷くのが精いっぱいだった。
こたつに戻ると上越はテレビをつける。雑音に紛れて東海道は上越をこっそり見つめていた。目の前で童謡をかっこつけて歌うお笑い芸人の声なんか耳に入ってこない。
今日のお礼を言いたかった。お礼を言えばこの甘い時間が特別なのだと自分で認めることになってしまうけれど、それでも。
「あの」
「はい?」
「上越さん何かあったら、言ってくださいね」
しまった、漠然としすぎたか。東海道は言わなければよかったとうろたえながら説明する。
「俺で良ければいつでも兄さんの愚痴とか、聴くので」
こたつの向かいでふっと笑う上越の笑顔に見惚れたのは一瞬だけ。次の言葉で東海道は現実に叩き落される。
「大丈夫ですー」
「まあ、そうでしょうけど! あいつプライド高いし、面倒だから」
「ジュニアは違うんだ?」
空気がキンと張りつめたように感じたのは自分だけだったんだろう。からかわれているのかもしれない。だってこの人、本当は、自分なんかに興味ない。そんなことは自分が一番よく分かっている。上越にとって自分は、恋人の弟でしかないのだ。
流し目で試すような言い方をして、自分の言葉を待っている。東海道は唾を飲んだ。
「俺、は――」
きれいな漆黒の眸に、自分だけが映っている。
「兄さんより、いい男になってみせますよ」
自分の口から出てきた言葉に驚いた。バレてもいいやと思ってしまった。告白に聞こえたならそれでいい。
もしも知られてしまったら、世界が終る気がしていた、でも違う。
始まってすらいない世界が、終わるわけはなかった。
「ふうん」
一瞬だけ見せた、つまらなそうな顔。それにショックを受ける間もなく上越は、さらさらの髪を揺らして、誘うような眼差しで。
「楽しみだね」
甘い声と、壮絶に色っぽい視線。振り回される覚悟を決めれば、自分たちの関係が今までと変わる予感がした。
くらくら、ぐるぐる、見つめていると目が回る。
優しく甘く暴力的に、この人は自分を虜にする。
優しそうでわがままで、人を振り回すことに長けている人だと思った。目を離すと、今までどうやって生きてきたんだと訊ねたくなるくらい生活力がないときがあって、一人にしておけない。微笑むと初恋の人のように幼くて可愛らしい。兄の部屋に棲む彼を、自分と兄だけが知っている。
「おはようございます」
高速鉄道御一行のお通りに、隣の宇都宮が一礼した。東海道も軽く礼をしてすぐ顔を上げる。兄はいつもの自分以外の路線すべてを見下したような顔をしている、宇都宮が気に入らないのか苦い顔をした後で。よっぽど、苦手なタイプらしい。笑いを堪える自分と目が合うと兄は、ふ、と口元を緩めた。
兄のすぐ後ろを歩く上越は東海道と目を合わせずに、東北の隣を歩く。陽の光の下では日影に入るように、自己主張をしない人だ。東北が宇都宮に気付いて頷くと、宇都宮は目を伏せた。
―――――分かりやすい奴。
ああいう捻くれた手合いは尊敬する他人の前では別人になる。宇都宮にとって東北は、おそらく彼の唯一の逆らえない人間だった。それは単純に上司だからではない。人間として敵わないと思っているのだ、東北に対して尊敬の念を抱いているのは高崎も同じだった。
自分たちがいかに彼らに尊敬の念を抱くか知っているかしても、それで相容れない状況が変わるかというと別の話だ。自分が制服を脱いだ彼の本性やあられもない姿を垣間見たことがあろうと、ベッドの上で上げるなき声の高さを知っていようと、陽の光の下で彼に駆け寄るわけにはいかない。上越が何か、東北に話しかけているのが見えた。
一団が通り過ぎる。ふと気付くと宇都宮は自分の顔をじっと見ていた。
「何だよ」
「え、何。無自覚?」
「は? 何言ってんのお前」
唐突に理解不能な問い掛けを始めた宇都宮を訝しむと、彼はぱちぱちと瞬きをした。
「高崎と同じだね、お前も」
先ほど自分が思ったことを宇都宮に言われ、東海道はもう意味が分からなかった。これ以上言い合っても無駄に思えた。宇都宮の不機嫌の理由に心当たりはなかったが、勝手に失望されて分かり合う努力をする気になれなかった。
*
部屋に戻る前に明日の運行表をチェックしていると、一つ気になる箇所があった。確認のため携帯に電話をしてみても兄は出ない。時計を見ると既に11時を回っていて、東海道は携帯を握ったまま考え込む。明日の朝よりは今夜中に伝えておいた方がいいだろう、そう考えて自室を出た。
部屋の前でインターホンを鳴らす。誰も出て来ないのでもう1度。もしかしてまだ仕事中か、急用が入ったかな、と東海道は考えた。
「ちょっと、鍵忘れてったの!?」
慌てた声とともに、タオルを躰に巻いただけの、黒髪を濡らした人間が出てきて東海道は赤面した。ここは誰の部屋なんだ、と一瞬混乱してしまう。上越は予想外の来訪者にドアノブを明け渡して招き入れた。今までも兄と上越が二人でいるこの部屋に邪魔したことはあったが、上越が一人きりのときにはなかった。いつのまに鍵を渡していたのだろう、あの堅い兄が、ここまで上越に心を許しているのかと思うと何とも言えない気持ちになる。
「ジュニア! 久し振りだね」
元気?と明るい笑顔で声を弾ませて言われれば、嬉しくないわけがない。東海道はますます赤面してうろたえる。と、遠くから足音が聞こえて東海道ははっとして中に入るとドアを閉めた。
「なんて恰好してるんですか!」
「えー? いいじゃん別に、男なんだし」
上越はばさっと濡れた髪をなびかせて部屋に入って行ってしまう。東海道は、ためらいがちに靴を脱いでそのまま部屋についていく。
「誰が来るか分からないのに」
「分かるよ」
上越はケラケラ笑って冷蔵庫から取り出したビールをテーブルの上に置いた。どうぞ、と勧めてくれてから、自分の分のビールを片手に足を組んで座っている。出されたものに口をつける気にはなれなかった。その前に言わなければならないことがある。
「あの、とりあえず、服を」
「えー? うん」
気の乗らない返事をした割には、上越はすぐに立ち上がった。東海道はほっと胸を撫で下ろす。あんな恰好で正面に座られては目のやり場に困るのだ。そして今、目の前の上越が口をつけた缶ビールの前で、再び目のやり場に困っている。
「お待たせ」
寝室から出てきた上越は、兄のものではないシャツとジャージを着用していた。
「上越さん」
「はい、なんでしょう」
にこにこ笑ってソファに座った上越に、東海道は耐えきれず、立ち上がって意見した。
「髪が濡れてます」
「あっホント」
上越がどうでも良さそうに、濡れた髪を指に巻いて東海道を上目遣いで見上げた。
その数分後、結局東海道は上越をソファに座らせて、ドライヤーを掛けてやっていた。濡れてつやつやしていた髪が熱を通してさらさらと流れる。綺麗な黒髪だな、と嘆息する。乾かしたばかりの髪は柔らかくて触り心地がとても良かった。上越は気持ち良さそうに大人しく扱われている。
「楽だねえ、人にやってもらうのって」
「面倒なら切ったらどうです」
「うーん…」
切った方が良いなんて思っていない自分がこんな台詞を口にするのは滑稽だった。寧ろもう少し長いのも見てみたい、そう思うと短い髪型も見てみたくなるから困る。
「うん。なんて言うかな」
思案する彼が自分に訊いているのか、自問なのか、東海道は分からずに黙っていた。
兄がなんと答えるかは自分には分からない。いや、分からない振りをしているだけかもしれない。好きにすればいいんじゃないか、そう答えてこの人を失望させたりは、しないだろうかと期待する。しないだろうな、と思った。そう答えた後で微笑む兄が目に浮かんだ、その後には一番嫌な結末が待っている。
「さっき、何を言いかけたんですか」
ドライヤーを洗面所に片づけて戻って来てから訊ねると、上越はきょとんとした。
「ああ。うん、君か、東海道本人だけでしょ? こんな時間に来るのなんて」
すぐに思い出してそうやって説明してくれるから居た堪れなくなってしまう。何も考えずに訊いたことを激しく後悔した。なんだかすごく恥ずかしい。
あと20分もすれば戻ってくると思うから待っててあげて。そう教えてくれてから、にこっと優しい笑顔を見せる。優しさに甘えてしまいそうになる、反省しなければいけないのは自分だ。
「非常識なのは俺ですね、スミマセン…」
「あはは。遅い時間でもこの部屋に出入りする権利があるってことだよ。兄弟なんだから、君たち」
考えすぎる東海道を笑って、上越は続けた。東海道は黙って上越の言葉を聴く。
「大体、僕に遠慮しなくたって」
「しますよ、それは」
思っていたより強い口調で言ってしまった。いや、自分がそんな言葉を言うとは思っていなかった、それは反射的に口をついて出た言葉だった。
上越が目を丸くする。しまった、と気付いたときには遅かった。手遅れだと思った。
昼間の宇都宮の言葉がぐるぐると脳内回路を行ったり来たりしている、そのせいで理性への近道は閉ざされて、欲望から出ていけない。
「…僕は謝った方がいい?」
遠くで心配そうな上越の声がする。
違う、そういう意味じゃない。そんな必要はないと答えたかった、けれど言葉が出て来なかった。そう答えたらこの居心地の良い空間が閉じることを知っていた。兄の恋人は今まで通り自分の前で無防備には振る舞わなくなる。手に入らない幻想のために、この関係を壊したくない。そのためにはどうすればいい?何も言葉が浮かばない。
本当は、久し振りと言われたとき、自分にとってはちっとも久し振りじゃないと言いたかった。
沈黙は不自然に思われる、何か言わなければと思い東海道は顔を上げた。
さっと体温が下がっていく。申し訳なさそうな上越の眼差し。殊勝なことを言っておいて、夜が深まれば兄の躰の下で喘ぐくせに。
自分がいくら嫌がっても、二人の時間の過ごし方は変わらない。この人が自分に申し訳なく思うのは、自分が兄の弟だからだ。そんな当然の理由に、自分は今憤りを覚えている。
悔しいのは兄を奪られたからではなかった。
――――――早く、早く帰ってきてくれ、兄さん。でないと俺は。
「ジュニア? ねえ、どうしたの」
テーブルを挟んで心配そうに見つめてくる、この眼差しを、あなたに返せなくなる。
「あー帰りにホ●弁買ってこ」
徹夜明けで欠伸をして席を立って伸びをした上越は、まだ仕事中の東北に話しかけるでもなく呟く。東北は始め、その略し方に驚いた。それを上越に面白がられて以来、東北は聞く度にぎょっとするが反応を見せないようにしている。社名変更は細心の注意を払わなければいけない、と最近教えてくれた良い例だ。いや、悪い例と言うべきか。
「食べてもいいが、3時間は寝るなよ」
食後すぐに眠ったら体に悪いという話は今では定説だ。実際には夜になると人間の体は栄養をため込もうとするため、食事をすると太る。朝は朝で、久しぶりの栄養を体がため込もうとして吸収率が良いというのだから、まったく、人間の体というのは太るためにできているとしか思えない。
疲れているところへ教育的指導を始めた東北に、上越はむっとしながら上着を着た。
「起きてから食べるんだよ」
東北は手を止めて、あきれ顔をした。上越がその目つきに、不機嫌そうに、何、と呟く。上越の不機嫌に気付いた東北は、準備していた言葉を少し和らげる。
「冷めたらまずくないか」
「起きてから食べに出るの面倒じゃない。せっかく夕方まで寝てられるのに」
鞄を背負ってさっさと出て行こうとする上越に、東北は会話を続けた。
「作ればいいだろう」
上越は、東北がどうやらひとりで帰らせてくれる気がないことに気付いて振り向く。東北も帰り支度を始めた。
二人は今日の当直当番だった。始発の発車を見届けてから帰宅しなければいけない。さすがの上越も勤務中に堂々と居眠りすることはできず(こう見えて上越は勤務態度が非常にまじめだ)雑務をこなして、ついさっき始発の発車の連絡を受けたところだった。
徹夜明けの回転の鈍い頭で、東北の言葉を反芻する。上越は愛想笑いなんか浮かべずに真顔で言った。
「は? 誰が」
今度は東北が驚く番だ。言葉の応酬は続いているのに意志の疎通がちっとも叶っていない。東北がデスクを離れて上越の前を横切りドアを開ける。上越は一瞬東北と目を合わせると、何も言わずに部屋を出た。それに東北が続く。
「お前が、自分で」
「意味分かんない」
そう言うと上越は東北に、手帳と筆記用具しか入っていない鞄を投げつけた。東北はその鞄と自分の鞄を二つ持つ。
鞄を持たされたことに、東北は異を唱えない。何か言ったところで、――待たせたんだから持ってよね、と例の女王然とした物言いで言い返されるだけだ。その言葉を聞きたい気もしたが、東北は目の前の会話をまず片づけてしまおうとする。
「普通、自分で料理くらいするだろう」
「やだよ、面倒」
上越と話していると何が普通のなのか分からなくなる。東北はいつもそんな風に考えていた。秋田や山形と話しているときには感じない、価値観の相違に気付かされる。普通はこうだ、と片付けようとした自分の偏見や狭量さを教えられる気がするのだ。結局、何が正しいのか分からない。分からないことこそが正しいのかもしれない。
考え込む東北の隣で上越は携帯を取り出した。
「東海道と山陽が着いたってさ」
そのまま帰るのをやめて一旦ホームへ向かう。出勤したばかりの山陽が手を振って来て、上越は無表情でそれに手を振り返した。東北は目線を合わせるだけだ、山陽の隣の東海道と同じに。
「あとは頼む」
「了解した。連絡事項は?」
東海道と東北が顔を突き合わせて打ち合わせを始めた。上越は暇そうに、ぼんやりとホームを見下ろしている。ここから落ちようとする人間の気持ちをこうやってたまに想像する。何がしたいのだろう、何を訴えたいのだろう。いや、本当は訴えたいことなど何もないのかもしれない。何かから逃れようとしているだけかもしれない。はたして彼らは、ここから飛び降りることで逃れることはできたのだろうか。
山陽が背後から話しかける。
「上越、落ちんなよー」
「落ちないよ、うっさいな」
しっかり睡眠をとって爽やかに話しかけてくる山陽に、上越は低い声で応酬する。
「ひどい言い方すんなあ。優しくしてよ」
「え? 君の女癖よりひどいの僕」
振り向いて眉を顰め上越に、山陽は後ろからヘッドロックのまねをした。
「お前な、俺は女癖が悪いわけじゃなくて女に優しいだけだっつーの」
「ま、物は言いようだよね。あー疲れた。これ楽」
上越は山陽に寄り掛かって眠たそうにあくびをした。
「そんなに疲れた?」
「いつも通りね。…そろそろ離してくれる?」
山陽が応えようとして口を開いて、何も言わずに閉じた。
傍からはじゃれ合っているようにしか見えない、上越は自分の首に巻きつけられた山陽の腕を掴む。
「ねえ、」
「上越、帰るぞ」
東北が上越を手招きした。上越は山陽の腕を解いて、振り返る。山陽は両手を肩まで挙げて、銃を突きつけられた格好をしていた。その仕草に上越は曖昧な笑みを浮かべる。
「後はよろしくね」
「ん」
「東海道もね、また夜に」
「ああ、ちゃんと休めよ」
「分かってるってば」
なかなか寝付かない子どもを叱るような東海道の口調。上越は苦笑して東北に追いつく。東北は上越を振り返ると、先にエスカレーターに乗った。
「山陽と何を話していたんだ?」
「え? 気になる?」
「……」
エスカレーターの一段上の男は正面を見つめて仏頂面をしているんだろう。上越は嘲笑するような眼差しを東北の背中に向けた。
「何だっけ。ああ、山陽の女癖はひどいよねって言ってきた」
「そうか」
「君、興味ないでしょ」
なんで訊いたの。そう訊いてもきっと答えは返ってこない。
山陽にも山陽の女癖にも、自分に危害が加えられないのなら東北は興味を示さないだろう。上越は人影もまばらのホームを見下ろして、ピースしている山陽に手を振った。山陽はとても分かりやすい。東海道は真面目に仕事をしている。
宿舎の入り口で、上越は、あ、と声を上げる。
「どうした」
「お弁当買ってくるの忘れてた」
さっき、帰りに寄ると決めていた上越は、もたもたしている間にそんなことすっかり忘れていた。東北を誘うか一人で戻るか、何か食べ物あったっけ、もういっそ夜出てくときに買おうかなと一瞬で選択肢を思い浮かべる。
東北は自分の部屋のドアを開けた。
「だから、目が覚めたら俺が作ればいいんだろう?」
東北はドアを開けたまま、上越が部屋に入るのを待つ。罠を張って獲物が誘いこまれるのを見届けるみたいに。
上越は何か言いたげに東北の顔を見た。それから部屋に一歩足を踏み入れると、相変わらず無表情な東北に顔を近づけて笑った。黒髪が揺れて耳が見えた。笑うと上越は、途端に幼く見える。
「お誘いどうもありがとう」
「さっきそこまで言わなかったか?」
「えっ言ってないよ! 絶対言ってない!」
「疲れてたんじゃなかったのか、元気だな…」