避けられていると気付いたのはお昼になる少し前。出勤してすぐ廊下で顔を合わせて、いつも通りにおはよう、と言ったら目線を合わせただけで彼は通り過ぎて行った。
――――――昨日のお礼言いたかったのに。
何だったんだ、あいさつくらいちゃんとしなよ、と上越は頭を掻いて自動販売機を探す。それから昨日の昼のこと、夜の強引さを思い出して、改めて東北の行動は謎がかっていると思う。自分に理解させる気がないとしか思えない。
「上越上官、おはようございます」
紅茶のペットボトルを片手に持った上越に、曲がり角ではち合わせた高崎があいさつする。
「ああ、高崎。ほんと高崎は単純でいいねえ、癒されるよ」
「は…」
きょとんとした高崎に上越はにっこり微笑みかける。素直そうで、単純そうで、優しそうで、無害に見える。扱いやすさという面で、上越は自分の部下である高崎にとても満足していた。
「上越上官、おはようございます」
「ああ、君もいたの」
朝から見たくない顔を見てしまった、と上越はテンションを一つ落とす。宇都宮からは、上司の前で作り笑顔を浮かべるだけでちっとも誠意が感じられない。
「始めからいました」
「ああそうだっけ、ごめんね、気付かなかった」
「それは八つ当たりですか? 僕に何か原因があるのなら改善させて頂きたいのですが」
「宇都宮」
一触即発な二人の会話に高崎が割って入る。自分の上司と同僚の諍いに同席させられるのも、そもそも言い合いをさせるのも高崎は嫌だったのだろう。上越はそんな高崎には答えず、宇都宮をまっすぐ見つめた。
「八つ当たりって何のこと?」
「僕の上司に対するストレスや劣等感――でしょうか?」
上越は宇都宮の言葉に、彼の顔を見つめたまま黙り込む。てっきり即座に反撃されると思っていた宇都宮は、何も言わない上越を意外そうに見る。これでは、この後に用意してあった言葉が使えなくなってしまう。
「僕が劣等感を持っているとしたら、向こうはストレスを感じているのかもしれないね」
自嘲するようにそう言って上越は立ち去った。カツカツと響く足音、すっと伸びた背筋が美しい。残された宇都宮は、自分の顔を睨みつけている高崎に気付く。
「え、何?」
「お前やめろよ、上越上官いじめるの…」
「え? 喧嘩売られたのは僕の方だと思うんだけど」
宇都宮がそう言っても高崎は聞き入れない。上越上官可哀想、なんて本気で言っているのかと宇都宮は自分の耳を疑う。普段から馬鹿だ単純だとは思っていたが、まさかここまで馬鹿で単純だったとは。ああでもそうやって思わせるのが上越上官の手管なのだ。
宇都宮が呆れて何も言えずにいると、高崎は言う。
「お前のそれは同族嫌悪だ」
「……」
宇都宮は自分の耳を疑って、高崎の言葉を反芻した。
――――――同族嫌悪。
「僕とあのひねくれ者の上官のどこが同じだって言うの」
*
上官室には既に東北がいた。上越は、なんだ、それなら待ってくれたって良かったじゃないかと思う。すたすたと一人で歩いて行くなんて冷たい。おかげで朝から宇都宮に絡まれてしまった、上越はそれを東北の所為にして終わらせた。
「おはよ」
「おはよー秋田。今日も可愛いね」
「上越先輩だって可愛いです!」
「ありがとう、長野は眼科へ行っておいで」
朝の挨拶代りに秋田を褒める上越を、秋田はいつも聞き流している。今日は長野が傍にいて、上越に言い返したせいで面白いことになっている。
「僕、両目とも2.0です!」
「そっかーじゃあ悪いのは目じゃないね、何だろうね?」
あんたの性格でしょ、と言いたいのを秋田はぐっと堪えていた。余計なことを言えばこういう出来事は悪く転がる。上越は今、長野と話しているのだから自分は黙って事の成り行きを見守ればいい。秋田は状況をそう判断する。
問いかけられた長野が椅子に座って涙目で上越を見上げている。
「上越先輩…」
「ん? なに?」
上越は書類に目を落としながら声だけ長野に向けた。
「可愛いと言われるのは嫌ですか? ごめんなさい」
「んー?」
上越は右手にペンを持って頬杖をついて、長野にちゃんと目線を合わせた。微笑むのではなく相手の出方を試すように柔らかく目を細める。
「大人になったら答えてあげる」
この人たらし!と秋田は胸の内で罵った。秋田の目には、顔を赤くしてうつむいてしまった長野が哀れでならない。子どもが言っても本気にされない、上越を可愛いと言うには大人の姿をしていなきゃだめなんだ、そう思って大人になる長野が可哀想だ。
見てはいけないものを見てしまった、上越といるといつもそんな気にさせられて秋田は二人から目を逸らす。いや、長野だってそんなに馬鹿ではないはずだ。大人になる過程で気付いてくれるといいけど、と期待する一方で、大人になる過程で傍にいれば思いが強くなる可能性の方がずっと強いと気付いて、秋田は考えるのをやめた。結局自分がいくら考えたところでどうしようもない。
「ほら、仕事して」
「はい」
上越に促されるのは癪だが、自分も仕事しよう、と秋田は仕事を再開した。
東海道に仕事を言いつけられる前、上越は新聞紙を探していた。見ると東北が読んでいて、上越は東北に近寄っていく。
「ねえ、天気見せて」
「ああ」
東北は新聞紙をばさばさと畳んで上越に見せてやろうとする。上越が顔を近付けて天気の欄を指でなぞる。
「シュークリーム美味しかったよ」
「ああ…」
東北は頷くだけで他に何も言わない、上越は東北の反応のつまらなさにむっとする。
「ねえ」
上越が肩を掴んでも、東北は無反応だ。
「……何か用か」
上越が文句を言いたげに東北を見る。東北は無表情なまま、上越と目を合わせない。さっさとこのやりとりを終わらせてしまいたそうに、鬱陶しそうに眉を寄せる。
「もう知らない」
上越は東北から離れて自分の机に戻り、その後、東海道に呼び出された。
東海道の言いつけに従って上越が上官室を出て行こうとして、ついてきた山陽と一緒に行く。上越は、昨日部屋から出るときに山陽とぶつかったのを思い出して、何か不審に思われているかもと言い訳をした。
「…あ! 昨日の? 何もないよ、ちょっとお腹いたくって、それで―」
それで急いで部屋を出たんだ、と早口で説明する。山陽の何か言いたげな視線の先回りをしたつもりでいると、山陽はその相手の名前を出した。
「東北が」
東北が何だと言うのだろう、山陽は何か訊いたのだろうか、考えてみればあの後二人で何か話した可能性はゼロではない。何か知っているのだとしたら、教えてほしい気もする。
手錠を掛けたことを今更怒ってるのか(最初に仕掛けてきたのは向こうだ)、昨日の態度がいけなかったのか(手を繋がれなきゃ逃げなかった)、せっかくこっちから話しかけても無視されている。昨日は手を握って来て離したくない、なんて言ったくせに、人の部屋に押し入ったのにシュークリームを渡しただけでさっさと帰って、次の日には別人のような態度を取るのだから意味が分からない。
「ちょっと。何、続きは」
それとも山陽が見ていて、東北が自分を無視していることに気付いたのだろうか、と上越は思う。山陽なら気付きそうだった、気付かれていたとしたら嫌だと思った。自分たちのよく分からない関係が周囲の人間に気付かれていたとしたら、なんだか、すごく。恥ずかしい気持ちがこみ上げてくる。やっぱり言わないで、と言おうとして山陽を見た。
「お前のこと、好きって」
山陽の言葉は自分にとって完全に予想外だったし、あり得ないことだった。思わず後ずさって山陽を見る。山陽は怒ったような顔をしていて、だから上越は怒られたような感じがした。どうして自分が怒られなければいけないのだろう、と上越は理不尽に思うが山陽の眼差しは鋭いまま自分の胸に突き刺さる。動揺が、見透かされている。
「お前、背中ぶつけてね?」
「な、なに馬鹿なこといっ…」
――――――あ、馬鹿、話題引っ張った。
背中痛いよって言えば良かった、と上越はすぐに後悔する。山陽の問い掛けに答えれば良いだけだったのに、その前の言葉に自分が動揺しているのが見破られている。どうしよう、どうしよう、山陽は絶対自分の動揺に気付いた。
「本人に確かめてみれば?」
山陽はそう言ってすたすたと歩き出してしまった。
なんだか今日は置いて行かれてばかりだ、と上越は呆然と立ち尽くす。
確かめる?そんな必要がどこにある?東北が自分をどう思っているかなんてどうだっていいだろう、職務に支障をきたさないのであれば、好かれていようが嫌われていようが、遠ざけられようが構わない。それなのに昨日の彼と今日の彼がちぐはぐでその理由を考えてしまっている。
上越は頑なな自分に溜息を吐いた。自分が東北にどんな感情を抱いているかを考えたくない、それでも、東北がどういうつもりなのかを知りたい。始めに逃げ出したのはこっちなのに、避けられてお礼も言えないのは嫌だなと思う、自分はわがままなのだろうか。そういう意味で、相手の気持ちを確かめたい、とは思うのだけれど。
――――――確かめるったって、ね。なんか避けられてるっぽいし。
もう知らない、と言ったんだ。何もなかったことにしてしまおうか、そうだ、きっと何もなかった。
上越は欠伸を噛み殺す。ホームで発車時刻を確認しながら、時刻表の変更欄にマーカーを引いた。
――――――もう知らない、なんて、知りたいから言うんじゃないか。
気付いたら今日一日ずっと、君のことを考えている。
次の日の二人は始めのうち、いつも通りに見えた。山陽は新聞を読んでいる東北をちら、と見る。東北は黙々と新聞を読んでいる。
「あ、おはよう、山陽」
「…おー」
ぱたぱた走っていく上越は東海道に今日のスケジュールを確認している。
「えーちょっと待ってよ、無理だよ」
「無理じゃない、やるんだ」
「僕、汗掻くの嫌いなんだけど!」
ロクな説明もせずに上越に命令口調で言った東海道を、上越は不愉快そうに詰る。また何か厄介事を押しつけられたのだろうと推測して山陽は状況を見守っていた。
「大体いつもそうじゃない? 僕には当日言えばいいと思ってさあ、東北にはちゃんと前日に連絡するくせに」
「当たり前だろう、被害の規模を考えたら」
「被害が小さくて悪かったね!」
頼みごとをしているとは思えない。もともと仲の良い東海道と上越は、仕事中にも関わらず二人とも砕けた態度をとる。山陽はそれを横目で眺める。楽しそうだなあ、いつも通りだ。いつも見ているから二人の行動のタイミングも分かりやすくて、そろそろだな、と山陽は席を立つ。
「臨機応変に動いてもらえて助かってるぞ」
「~~っもういいよ!」
今更何を言っても皮肉にしか聞こえない東海道の言葉に、上越は会話を投げ出して部屋を出て行こうとした。
「行ってきます! バ海道!」
「お前な、」
「あ、ちょい待ち」
「へ」
上越はべえっと舌を出した。山陽は部屋の出口で待ち構えて、上越の詰襟に人差し指を突っ込んだ。上越は立ち止まって、襟を抑えて山陽を振り向く。
「わ、何すんの」
「俺も行く」
上越は普段通りだったのに、東北が釣れた。山陽は、東北が一瞬だけ上越を見たのを確認して、上越と一緒に上官室を出た。
「何か用事?」
「んー、ちょっと…」
「…あ! 昨日の?」
察しの良い上越は、目的が自分にあると判断したらしく即座に話題を振ってきた。相変わらずよくしゃべる。そういうおしゃべりな人間が、昨日みたいな態度を取ったから気になるんじゃないか、と山陽は複雑な気持ちになる。上越が普段通りに話せば話すほど、普段通りじゃない上越が気になって仕方ない。
――――――昨日東北に何された?
そう訊ねる権利が、自分にあるのだろうか。
「何でもないんだけどね、ちょっとお腹いたくって、それでー」
「東北が、」
自分を騙せると思って歩きながら嘘を吐く上越の言葉を止めたかった。上越の口の動きが止まった。黙れとは言っていないのに黙った、上越は前を向いている。
「……」
「何、続きは?」
「お前のこと、好きって」
上越が顔を真っ赤にしてとても驚いた顔をしている。自分の顔が真っ赤なのにはまだ気付いていないんだろう。上越はそのまま山陽から離れて、廊下の壁に背中を張り付けた。追い詰められた子どものように、じっと山陽を見てくる。山陽はそれを見て呆然とする。
「お前、背中ぶつけてねえ?」
「な、なに馬鹿なこといっ…」
――――――ああ、やっぱり。
確信させられてしまった、上越の反応は、何もされていない男の仕草じゃない。昨日の時点でもそれは分かっていたことなのに問い詰めなかったのは、問い詰めても無駄だと思ったからだった。もし、東北と上越の関係が以前のままなら、上越は自分の言葉を嘘だと見抜いただろう。
山陽は顔を真っ赤にしてうろたえる上越に、何を言えばいいのか分からなくなった。普段はみんなが慌てていても涼しい顔をして、何にも縛られずに自由なくせに、こんな顔もするのだと知った。
山陽は始めから東北の言葉を信じていたわけではなかった。むしろ、嘘を言うのが当然だ。これまで自分たちは逐一恋愛に関する報告をし合ってきたわけじゃない。東北に事実を言う義務はないし、あの男はそんな義理を感じてもいないだろう、と山陽は冷静に判断する。
「あのさ、」
今考えてみても自分がなぜそんな台詞を吐いたのかは分からない。何があったと本人には訊くことのできない自分はこうやって外堀から埋めて自滅していく。
「気になるんなら、本人に確かめてみれば?」
上越が焦れば焦るほど、山陽は頭が冷えていった。冷えたのは心だったのかもしれなかった。
*
「山陽おかえりー…あ、1人?」
「なんだよ」
「上越は一緒じゃないのかなって」
山陽はクッションを抱き締めたままソファに沈んでいく。
分かっていて言ってるんじゃないか、秋田は全部。そう穿った見方をしたくなるくらい秋田は的確に自分の傷を抉ってくる。
「お前…俺、最近お前に何かしたっけ?」
「あ、ごめんごめん。いじめる気はなかったんだけど」
ソファに寝転がって秋田を見上げる山陽の隣のソファに、秋田が腰を下ろす。秋田は自分で淹れたコーヒーを飲んでいた。
「なんであんなこと言っちゃったんだろう…」
「ん? 何か言ったの」
山陽は四角いクッションを座布団のように折りたたんで、ソファの背もたれにくっついて背中を丸めている。
「上越に」
秋田が続けた言葉に、山陽ががばっと身体を起こした。
「え!? 見てた?」
「何を?」
澄ました顔で言う秋田を見て、山陽はいじける。
「お前はめたな…」
「あんたはめて何になんのよ、馬鹿馬鹿しい」
秋田は呆れかえって、山陽を蔑んだ眼で見下ろすと立ち上がった。言われてみれば確かにそうだ、自分に白状させて秋田が得をすることは何もない、と山陽も思い直す。
「あっ待っ 待って! 見捨てんなよ」
山陽が秋田の手首を掴む。秋田は山陽が気の毒になったのか山陽の顔を見た。
「そういう決め顔を僕に使ってどうすんのよ…」
「は?」
「で、何言ったの」
「東北って上越好きなんじゃないのって…」
「!」
秋田が目を丸くしたのを見て山陽は自分の顔を両手で覆った。何も言われなくても分かる、俺、ナイスアシスト。しかもその後東北に訊けばって言った。言っちゃった!!
東北の気持ちに上越が気付いているのかどうかは知らない、上越が東北をどう思っているのかも分からないが、二人の関係の後押しをしてしまった自覚はある。
「分かってるからもう何も言わないでくれ…。だって、上越が東北の名前出したら固まるからからかいたくなっちゃって、そしたらあいつ」
「……」
「何か言えよ!」
「どっちよ」
さっきは何も言わないでって言ったくせに、と秋田は山陽の理不尽さに付き合いきれずに文句を言う。
「あんたの考えてることが真剣に分からないわ…」
「だって!むかついたんだもん!」
好きな子にちょっかいを出す小学生みたいな行動に出た山陽に、秋田はかける言葉が見つからない。いや、今自分の隣にいる人間が小学生だとしたらその行動はとてもよく理解できる、しかし山陽の女扱いの上手さや、それだけでなく他人への気遣いの上手さを秋田はよく知っていた。だからこそ山陽は人当たりが良くて自分たちの間の調整役を買って出ることも多かった。
そんな山陽が、今まで上手く関係を築いてきた上越の前でどうしようもなくなっているらしい。話を聞かされながら秋田は自分の立ち位置を悩む。
「東北って上越のこと好きだと思う…?」
「好きだと思ってんじゃないの? あんたが」
秋田の眼差しは相変わらず冷ややかだった。山陽はめげずに食い下がる。
「お前の眼から見て、だよ」
「うーん…」
秋田が何を思い出しているのか分からない。山陽はコーヒーカップに口をつける秋田をじっと見る。今更だが、俺の分のコーヒーはないのか、と訊きたくなる。
「イライラしてたと思う」
「……は?」
「あの二人って、全然違うから。東北がイラついてるように見えたかな」
考え込む秋田が、今はそう思っていないことに山陽は気付く。今もそう思っていて、そんな言葉を言う人間ではなかった。山陽は自分の恋心が知られていることを了解した上で秋田に助言を求めていた。
「上越は…」
山陽はぼんやり上越の名前を呼んだ。自分が上越のことを語る前に秋田の話を訊きたかった。
「あの子は、さびしがり屋だから、」
「……うん」
「人の感情に敏感な人だとダメになるよね」
秋田の言葉が山陽には理解できなかった。普通に考えれば人の感情に敏感で、賢くて、上越の言いたいことや考えていること、不安全部を掬いあげることができる人が恋愛には相応しい。上越はそういう完璧な人間を選ぶべきだと山陽は今でも思っている。どんな人間に対してだって優しくて聡い人間の方が上手くやれる、気を遣う人間はどこへ行っても重宝される。上越みたいな口にしないくせに他人への要求の多い人間は特にそうだと思った。
「なんで」
理由を訊ねようとした山陽に、秋田は誤魔化すように笑った。それが東北なのか、と山陽が訊く前に、長野と東海道が戻ってきた。
ベッドの上に横たわった女性の裸体を見下ろして口元を緩める。彼女とは数週間に一度こうやって会う、セックスをしていて愉しませ方を分かっている人だと思うし、余計なことを言わないから楽でいい。
「またね」
そう言って彼女が眠っているうちにシャワーを浴びて服を着替えてホテルを出た。彼女は僕の白雪姫じゃない。空は朝の訪れを告げている。
北陸新幹線の開通に最後まで消極的だったのは上越先輩だった。東海道先輩は上の決定には逆らわない人で、東北先輩は自分と無関係なものに驚くほど興味を持たなかった。東海道先輩みたいな人が世間的には賢いと言われて、東北先輩みたいな人が気付いたら周囲より取り立てられる人なのだろうと思った。彼は余計な主張は一切せずに与えられた仕事を黙々とこなす。それにミスが少ない。二人を見ていると、子どもだった自分の目にも世の中の仕組みが分かりやすかった。
山陽先輩は何を考えているのかよく分からない人だった。明るく笑っていたかと思えば、次の瞬間には誰のことも寄せ付けない空気を身に纏っている。あの人を見ていると、笑顔というのは人を拒絶するための道具なのだと思う。誰にでも愛想良く笑って、お前は他の人間たちとも同じだよ、だからこれ以上、自分だけが特別だと思って俺に近づいたりしないでくれ、そう言って床に水平にロープを張っているように見えた。進もうとすれば足元をすくわれる。自分から誰かのことを傷つけたりはしない、むしろ穏やかに受け入れて、受け入れられた人間を、本当は自分は受け入れられていなかったのだと気付かせる、そういう人だった。誰にも心を許していないように見えた。
そんな山陽先輩が、上越先輩の前だといつも笑っていた。上越先輩はそれにいつも素っ気なかった。山陽先輩が受け入れる振りをするのに比べ。あの人はそもそも誰のことも受け入れていないことが丸分かりだった。優しいのは子どもとお年寄りに対してだけで、その他のものとは平等に距離を取っていた。人を寄せ付けない人間の持つ、清らかさと慎みがあった。他人に何かを要求することをしない人だった。それは彼が既にたくさんのものを諦めてきたからなのかもしれなかった。
当然、上越先輩は僕に対しては親切で優しくて、よく面倒を見てくれた。東海道先輩がいるところでは何も言わなかったけれど、東海道先輩がいないとき、困っている僕を助けてくれたのはいつも上越先輩だった。泣き喚いた僕を慰めるのは、東海道先輩より上越先輩の方がずっと上手かった。
何を感傷に耽っているのだろう。昨晩の楽しみに浸るでもなく、未だ姿を見せない同僚との過去を思い出している。
自嘲しながら、自分の机の引き出しを開けてボールペンを探す。いつも使っているペンが見当たらない。堪らなくなって引き出しの整理整頓を始めると、秋田先輩が通り掛かった。
「大掃除中?」
「おはようございます。ペンが見当たらなくて…あ、あった」
ペンが転がっていた引き出しの奥には、昔の自分の宝箱があった。東海道先輩にもらったICカードから始まって、その小さな箱にいろんなものを入れたり出したりしていた気がする。箱が小さくてたくさんのものが入らなかったという理由の他に、自分は一つ以上のものを大切にし続けられない悪癖があった。
最後には何が入っていたんだっけ、まるで違う人間の行動を確かめるように箱を開けると、コンビニでも買えるようなキャンディーが一つ残っていた。
*
転んで傷だらけの膝を見ていると、じくじくと痛んでくる感じがした。僕は目に涙を溜めて大声で泣き叫ぶ。今思うとみっともないけれど、当時の僕はそれが当り前のことだと思っていたのだ。痛いから泣くということが。
「長野、おい、」
東海道先輩が自分の名前を呼んでいる。今泣き止んだらもっと痛みがひどくなるんじゃないかって思う。だから僕は泣き続ける。それに、本当に痛いんだ。見ているともっと痛い。転んだのは自分が躓いたからで、誰も悪くないのだけれど、泣かずにはいられない。
「東海道、もうちょっと頑張ってよ」
秋田先輩にバトンタッチして、秋田先輩が僕の頭を撫でようとする。秋田先輩はすごく優しい人なのに、今の僕は素直になれなくて、秋田先輩の手を振り払う。
「どうしよっか…?」
秋田先輩が東海道先輩を振り返る。二人は顔を見合わせていて、僕は泣き止もうにも泣き止めない。迷惑を掛けてしまっているのは分かっているのに、ただ泣き続ける。
東海道先輩が腕組みをしていると、上越先輩が部屋に戻ってきた。
「なに泣いてるの? あ、転んじゃったんだ?」
上越先輩は部屋の入り口で泣いていた僕の視線までしゃがんで、僕の膝を見る。顔が近くてびっくりして、僕の涙は引っ込んだ。痛そうだね、と呟く。僕の傷を見ようとして伏せられた睫毛がすごく長い。僕はそれを見ているうちに、上越先輩ってやっぱり綺麗な顔をしているなあ、なんて思ってしまった。そう思ったら、もう泣けない。
「おいで、手当てしてあげる」
立ち上がった上越先輩に手を引かれて、僕は上越先輩の椅子に座らされた。普段上越先輩が座っている椅子だと思うとなんだかどきどきした。
「上越だったら泣き止むのか…」
「まあまあ」
東海道先輩の言葉は事実だから僕は何も言えない。秋田先輩がそんな東海道先輩に、いいじゃない、と言っている。
上越先輩は机の中の1番上の引き出しから絆創膏を取り出して、僕の膝に貼ってくれた。
「まだ痛い?」
僕は涙目のまま、上越先輩を見上げてこくんと頷く。痛いけれど平気です、と言おうとした。
「痛いのに我慢して、いい子だね」
ぽんぽん、と頭を撫ぜられて、上越先輩のてのひらの下で僕は真っ赤な顔をしてしまった。我慢は全部、上越先輩にいい子だと思われたくてやったことのように思えたし、その前の自分は泣き叫んでいて我慢なんかしていなかった。恥ずかしい。こんなに優しくてきれいな人の前で、子どものままずるいことをしてばかりの自分は、この人の向かいにいる価値なんてないと思う。構って欲しくて泣いて、構って欲しくて泣き止む。
「じゃあ、ご褒美をあげよう」
上越先輩は机の2番目の引き出しを開けてキャンディーをくれた。自分の手のなかに落ちてきたそれを、僕が食べてしまえるわけなどなくて、大切に大切にしまっていた。
*
五年以上前にもらったキャンディーを大切にとってある自分と今更向き合うこともできなくて、キャンディーを戻す前に箱に入った小さな紙に気が付く。こんなところにあったのか、どこへやったのかと思っていた。懐かしい、それは一枚の切符。印字されている駅名を見つめて、箱に蓋をして元に戻した。
あの頃食べていたらこのキャンディーはきっと甘かったに違いない。今ではこの切符の悲しみが伝染って、もう食べられない。
*
4年くらい前、上官室に戻る途中、上越先輩が線路に落ちたのを目撃した。上越先輩の姿はもうこの廊下の窓から見えない。僕は驚いて、誰かに知らせなくちゃと思って、東海道先輩と待ち合わせていた上官室に駆け込んだ。中にいたのは山陽先輩だけで、
「上越先輩が線路に…」
と、伝えた瞬間いつもはだるそうに足を組んでいる山陽先輩が上官室を飛び出していた。待ってください、と言って追いかけても山陽先輩は廊下を走って行ってしまう。
息を切らせて新幹線のホームにたどり着くと、上越先輩はすぐに僕に気付いてくれた。
「あ、長野」
「上越先輩!」
上越先輩が元気そうなので安心していると、山陽先輩に肩を掴まれてしまった。
「おい長野、俺を素通りか?」
そう言う山陽先輩は笑っている。
「山陽先輩、お疲れさまです!」
取り敢えず挨拶をすると、山陽先輩は笑ったままだった。自分の答えは何か間違っていただろうか。この人が上越先輩を助けてくれたのだとしたら、もっとお礼を言うべきだろうか。そうだ、まずは詳しい話を聞こう。
「誰が挨拶しろっつった」
手を離してくれたので、僕は心おきなく上越先輩に抱きついた。先輩はよしよしと頭を撫でてくれる。
「大丈夫でしたか?」
「うん。なんともないよ」
そう言って上越先輩はにっこり笑う。
「心配してくれてありがとう」
柔らかい声でお礼を言われて、何もしていないくせに僕はくすぐったくなってしまう。
「子どもが線路に降りちゃったから助けようと思って。列車が来る前で良かった」
「上越先輩。気持ちは分かりますけど、危ないのは良くないです」
上越先輩を見ているとたまに不安になる。犠牲的精神を持っているわけでもないのに、自分のことを二の次にして、目の前の事件に飛び込んで行ってしまう人だ。上越先輩の判断が合っているのか間違っているのか、全部を把握していない自分には分からないけれど、上越先輩が事故に巻き込まれてしまったら大変だ。
「ふふ。長野はきっといい男になるね」
上越先輩の言葉の意味が、僕にはよく分からなかった。上越先輩は笑って僕の頭を撫ぜている、こんなのいい男扱いじゃない。ずっと先の話じゃなくて、今、いい男だと思って欲しいのに。
でも、山陽先輩の目が点になっているのは面白かった。
「そうだ、長野。二時半に東海道に呼ばれてたでしょ? 行かなくて平気?」
「あっそうでした!」
すっかり忘れていた、それどころじゃなかったのだ。東海道先輩も説明すればきっと分かってくれるだろう。
「行ってきます、上越先輩、山陽先輩、それじゃあ!」
時計は35分を少し過ぎたところだった。急いで戻った上官室に、東海道先輩はまだ来ていなかった。代わりに秋田先輩がいて、僕にもお茶を淹れてくれた。
「お疲れさま。はい、どうぞ」
「ありがとうございますー」
秋田先輩は優しい。温かいお茶を飲んでいると心が落ち着く。上越先輩に何もなくて本当に良かった。上越先輩が怪我をしてしまったりしたら、すごく嫌だ。ついこの前自分が転んで膝が擦り剥けて血が出ただけで、あんなに痛かったんだ。青い痣を見るのも悲しい。
「東海道先輩、どうしたんでしょうか」
「何時に待ち合わせたの?」
「二時半です。今日は、外国の鉄道のお話をしてくださるんだそうです」
「へえ、面白そう。僕も聞こうかな」
秋田先輩は、そうだ、今日わたしの部屋で鍋をするからおいでね、と誘ってくれた。その後待ち合わせの時間から10分遅れて東海道先輩が来た。急な会議に呼ばれていたこと、遅れてごめんなと謝ってくれた。僕はちっとも東海道先輩を責める気はなかったし、そんな風に謝ってくれる東海道先輩は良い人だと思った。
東海道先輩はいつも忙しくて大変そうだ。与えられた仕事を断らないから、らしい。東海道は真面目だからね、と上越先輩は言う。そんな上越先輩だって、仕事には真面目だと思う。
( 少しして僕が気付いたこと。山陽先輩といるときの上越先輩は、僕や他の誰かが近づくとすぐにそっちの人に気付いた。山陽先輩といるときには上越先輩はひどく緊張しているからだ。全身の毛を逆立てた猫みたいに緊張してる。
山陽先輩といるときの上越先輩は、山陽先輩に気を遣わずに僕を構ってくれていた。それは山陽先輩とは信頼関係があったからじゃなくて、山陽先輩と他の人がいるとき、どんな風に話したらいいか分からなかったからなんだと思う。二人きりでいても、どうしたらいいか分からなくなるくせにね。あの人ほんと可愛いよね。 )
その日の夜、秋田先輩の部屋での鍋に上越先輩は来なかった。
「上越先輩、来ないんですか?」
「うん、今日は早く寝るって」
秋田先輩はそう教えてくれた。僕は鍋が終わった後、秋田先輩と一緒に上越先輩の部屋にきりたんぽを持って行ったのだけれど、上越先輩は部屋から出て来なかった。
「寝てるのかな」
「……」
「明日持ってきてあげよう、ね?」
沈んだ顔をした僕に、秋田先輩は気を遣ってくれた。
*
次の日上越先輩はいつも通りだった。少なくとも僕の目にはそう見えた。その後暫くして、秋田先輩と二人でお茶をしていたときのこと。最近刺繍に凝っていると言う秋田先輩が指に針を刺した。秋田先輩は自分の机を漁った後、ないなあ、と呟いた。
「長野、絆創膏持ってる?」
「すみません…」
「誰か持ってないかな」
「あ、上越先輩なら、たぶん」
以前自分が怪我をしたとき、絆創膏をもらったことがある。そうね、と言って秋田は長野の隣に来て何のためらいもなく机の引き出しを開けた。僕はちょっとぎょっとしながら、けれど付き合いが長いとそんなものなのかな、とも思った。
「何番目だったかなー」
一番上の引き出しを開けると絆創膏はすぐに出てきた。
「二番目はキャンディーが入っていました」
僕は思い出して嬉しくなる。
「へえ…」
そう言って秋田先輩は三番目の引き出しを引っ張った。ガチャガチャ音を立てるだけで、引き出しは引かれない。
「鍵掛かってるわね」
「秋田先輩、何してるんですか…」
「興味本位」
目的物を見つけた今も探索を続ける秋田先輩に、僕は苦笑する。秋田先輩は諦めてソファに座る、僕もその隣に座った。
「あの子って自分のこと何も話さないから。分からないのよねえ…」
「……」
「子どもの目から見て、どう?」
試すような秋田先輩の目、嫌な感じがした。いつもの秋田先輩はもっと感じが良い人なのに。なんで、わざわざ子どもって言うのだろう。そりゃあ、子どもと大人に見せる顔があんなに違う人はそういないのだろうけど。
「自分を見せられない、不器用な人だと」
僕はそれ以上何も言わなかった。どんなに上越先輩が綺麗で優しくて自分の目に美しく映っているか、特別かを語れば嫌がるのは上越先輩だと知っていた。それに、秋田先輩はそんなことを訊いたんじゃない。
「そう」
秋田先輩は、もう刺繍には飽きたようだった。
*
その2年くらい後。
一人で部屋に戻ると、上越先輩と入れ違いになった。
「上越先輩、こんにちは」
「ああ、長野! 僕ちょっと会議に行くから、あと宜しくね」
「はい、行ってらっしゃーい」
上越先輩を見送って開けっ放しの窓辺に立つ。窓を閉めると、上越先輩の机の引出し、3番目に小さなキーホルダーが下がっていた。鍵だと一目で分かる。
好奇心に逆らえなかった。
気が付いたら引き出しを開けていた。引き出しを開けた後、僕は自分がなぜ引き出しを開けずにいられなかったか、その理由を知った。入口ですれ違った上越先輩と僕は、ほぼ背丈が並んでいた。
引き出しの中には、新大阪から博多までの区間の切符があった。逆区間のものや、新大阪から姫路までのもの、新倉敷までのものもある。きれいな名前の駅ばかり集めているのがあの人らしいと思った。あの人には、きれいなものがよく似合う。
集めているんだ。そうとしか思えなかった。山陽先輩が上越先輩に、こんな贈り物をすることは考えられない。
あの人は、自分が乗りもしない新幹線の切符をこんなに集めて何を思っているのだろう? 鍵を掛けて大切に、何枚も、何枚もしまい込んで。昭和47年3月15日、大阪から岡山までが開通した日の切符まである。どうやって手に入れたのだろう。
少なく見積もっても100枚は散らばっている。乗るつもりだったのだろうか、いや、そんな暇はないだろう。だからこうして使うつもりのない切符を集め続けているのだ。
――そうして、会議の時間も忘れるくらい、一人の部屋で思いに耽って?
一番上の切符の有効期限は昨日までだった。僕はその切符を自分のポケットにしまった。
秘密を知ろうとした罰だ。僕は自分の恋が永遠に叶わないことを知ってしまった。僕は上越先輩の机から離れた。雑然としていて、絆創膏やキャンディーがしまわれているこの机。鍵を掛けた空間の向こうには、彼の秘密が眠っている。
*
仕事を始めると、やっと上越先輩が出勤してきた。
「おはよー」
「遅い!」
イライラした東海道先輩に怒鳴られても、上越先輩は、先にホームを見てきたんだよと悪びれない。東北先輩は書類を茶封筒に詰めると暇そうに新聞を読んでいる。上越先輩が東海道先輩の相手を放棄してソファに座ったところで、山陽先輩がやって来る。
「おーい、中央線がまた停まったぞー」
山陽先輩の報告に、みんなまたかという顔をする。これが自分の路線なら各々対策を急ぐだろうに、常習犯の路線には冷たい。
「僕、見て来ましょうか」
こういう仕事は下っ端の役目だ、山陽先輩も同伴してくれるあろう。席を立ってデスクを離れる。立ち上がった上越先輩に手招きされた。
「何ですか?」
「襟」
上越先輩は僕の詰襟のホックを止めてくれた。白い人差し指が自分の首を掠める。指先を、捕まえてしまいたい。
「ありがとうございます」
「…あ、うん。行ってらっしゃい」
不自然に声に力が入っている。お礼を言っているのに目が合わない。それでも、この人に目を逸らされると、目を見つめられるのと同じくらい、どきどきする。上越先輩は東北先輩のところに行ってしまった。
僕は、どうしたのかなと思いながら、山陽先輩の後に着いて行った。
「長野は偉いなー、って、もう北陸か」
「どっちでもいいですよ、呼び方なんて」
「お、さすが色男。器がでかい」
「なに言ってるんですか」
僕が苦笑いをすると、山陽先輩は首筋を人差し指でとんとん、と叩く。
「ココ」
「…あ」
思い当たる節がないわけではない。ああ、上越先輩に見られちゃったな。そう思うと後悔する。自分はこの恋が叶わないことを知っているのにまだ諦め切れていないのだなと気付かされる。案外自分は執念深いのかもしれない。今なら秋田先輩が自分のことを考えて、諦めさせようとしてくれていたのがよく分かる。あの人は本当に優しい、それは自分にとっては無駄でしかなかったのだけれど。
前を行く山陽先輩の背中を見つめながら、山陽先輩は、上越先輩の机の引き出しのなか、上から三番目の秘密を知っているのだろうかと思った。知らないんだろうな、二人がもう互いの思いを伝え合っていたとしても。上越先輩の性格から考えて、あんなの、打ち明けるはずがない。僕だけが、その秘密を知っている。
知っていたら嫌だな。あんなに可愛いひとを、知っているのは僕だけでいい。それなら、秘密を知るのと引き換えに失ったものを仕方がないと思えるから。
上越先輩、僕はまだあなたのことが好きです。
「東海道先輩~!!」
長野が泣きながら上官室に駆け込んできて、幸か不幸かそのときその部屋にいたのは自分だけで、俺は面倒だなあと思いつつ仕方なしに話を聞いた。こんなのトラブルがあったに決まってる。
「長野、どうした?」
「上越先輩が線路に!! おっこっちゃっ…」
泣きじゃくる長野の前を素通りして、気が付いたら部屋を出ていた。
「ホームだな?」
「は……あっ待ってください山陽先輩!」
――待ってられるかこの状況で!
俺には長野の悲鳴を聞いてやる心の余裕などなく、廊下を走ってホームに向かう。線路に落ちるような状況を考える。誰かに突き落とされたか(あいつ方々で恨み買ってそうだからなあ)、うっかり足を踏み外したか(ああ見えてあいつ、抜けてるからなあ)、何かの事故に巻き込まれたか(人身事故マジ困る!)。線路に落ちた結果の人身事故、という言葉に行きついて、そこから先は何も考えられなくなった。人身事故。その四文字が俺の視界を真っ暗にする。
顔パスで改札を通過して、階段を駆け上ってホームに着くと、ちょうど上越新幹線の発車時刻だった。明るい世界のひときわ明るい場所で上越が、にこにこ笑って車掌に手を振っている。笑顔のせいで眩しいのかもしれない。
発車音が鳴り響いて、上越新幹線が走り去る。上越が長い髪を耳に掛けながら、やっと気付いたようにこっちを見た。発車直後の新幹線のホームには二人きりだ。
気付いてくれたのが今で良かった。10秒前の自分は上越の幻影に囚われて、人前に出せないくらいみっともない顔をしていたから。
「お客さん、一歩遅かったですね」
次の便は14時52分発、Maxたにがわ415 号です。
時刻は14時32分。とき327号が発車したところだった。乗客にでも言うように綺麗な声でアナウンスして、上越は笑う。ホームにこんな駅員がいたらきっと乗客も増えるのに、からかわれているのにそんなことを考える自分は本当にめでたい。今度一日駅員やろうぜって提案してみようかなと思う自分の脳みそはまだ正常に機能していないんだ。ふざけてばかりの上越に文句を言うこともできないなんて、これじゃあ俺はただのアホだ。
「…長野に、落ちたって聞いて…」
「ああ。子どもが線路に降りちゃってね、それで…」
冷静に答える上越から、自分の選択肢になかった答えを聞かされた。
「僕も降りて、ホームに戻してあげたの。降りたとこだけ見たんじゃない?」
降りたところが落ちたように見えるだろうことは想像に難くない。上越の言葉には説得力があった。
そう言うと上越は、俺の背中越しにまたよそいきの笑顔を作ってひらひらと手を振る。おいおい誰を見てやがんだ、目の前に俺がいるだろちくしょーと思いつつその視線の先を見ると、奥で東海道線に乗る少年が手を振っていた。小学生くらい、あいつがそうか。なんて人騒がせなガキだ、と俺は深い溜息を吐いた。今更、久しぶりの全速力で胸が苦しい。
「上越先輩っ!」
今頃到着した長野に、お前最後まで見てから来いよ、と文句を言ってやりたいようなそれも大人げないような、つまり何を言っても負けな気がする敗北感を背負って曖昧な視線を向ける。
おそらく長野はホームからではなく、上のフロアから見ていたのだろう。それで大慌てですぐ近くの上官室に駆け込んできた。その状況判断はとても正しい、長野が駆け付けたところでどうにかできるわけがない。呼んでいたのが東海道の名前だったことは不問にしておいてやってもいいくらい、正しい。
「あ、長野」
「上越先輩! 無事でよかっ…」
「おい長野、俺を素通りか?」
思わず肩を捕まえてしまった。上越に駆け寄ろうとした長野は俺を見上げている。
「山陽先輩、お疲れさまです!」
「誰が挨拶しろっつった」
どうも話が通じなさそうだ。状況が状況だけに、上越しか見えていないこいつに俺と話す気があるとは思えない。長野は普段から上越しか見えていないんじゃないかと思うときがある。東海道のこともまあ、見えているんだろう。
そもそも子どもに対して情報は正確に、きちんと見てから報告しろ、などと指導したところで効果はまったく期待できない。ああ、なんて大人な俺。子どものすることだし許してやろう。(あ、さっき肩を捕まえたことは保留で)そう思って手を離すと長野は上越に抱きついた。あ、前言撤回します。
「大丈夫でしたか?」
「うん。なんともないよ。心配してくれてありがとう」
――えっちょっと待って、俺には?
俺だってさっき心配して駆け付けたんだけど。なりふり構わず階段駆け上ったんだけど。多分人間とすれ違ったけど覚えてないし、周りの景色なんて一枚も思い出せないくらいに俺は必死だったんですけど。
なんてそんなの、言えるわけない、カッコ悪い。いや、カッコよく言えばいいのか?
「俺が勝手に心配しただけだから、気にすんな」
おお、こんなこと言えたらカッコいいかも俺!
「いや、君に言ってないし」
脳内でちっとも可愛くない上越に言い返されて、俺は会話に混ざる努力を諦めた。リアリティに溢れた自分の想像力がこういうとき邪魔だ。夜はあんなに便利なのに。っていやいや、今はそういう話じゃない。
現実に戻ってくると、目の前では、お礼を言われて嬉しそうに、えへへと笑う長野の頭を上越が優しく撫でている。しゃがんであのポジションに収まりたいとは思わないけれど、今の自分の立ち位置寄りは遥かにマシだと思う。なにこの半端ないアウェー感。俺一応一番手よ? 一着よ? ここが新大陸だったら間違いなく俺の領土よ?
子どもや老人に上越は優しい。いや、自分だって優しくないとは思わないし、他の連中だって老人子どもに優しいことは優しいが、こんな風に笑う上越を他にどこで見られるんだっつー話です。ああもう、お前のポケットに入ってるカメラを今すぐよこせ、お前の笑顔でメモリーカード埋め尽くしてやるから、なんて、そんなこと言ったら俺本気で気持ち悪い! 寒い! きっとこの寒さは冬だからですよね?
そんな俺の脳内会話をよそに、二人は仲良さそうにしている。
「長野はきっといい男になるねー」
――ええええお前何言ってんの!? なに言っちゃってんの!? そんなこと言うとこのガキ絶対期待するぞ! 取り敢えず長野、お前一旦場所変われ。
さすがの俺も目が点になった。近所の綺麗なお姉さんよろしく長野を可愛がる上越。将来的にいい男になった長野(北陸)ならお前は受け入れるっていうのか!? なあおい! その前に俺を受け入れてくれ! 2014年まで待たなくたって俺がいるだろ。
こいつはなんだってこんなに俺をハラハラさせるのか。線路にいようがいまいが、俺はどのみち落ち着かない。手足を縛って二人だけの部屋に閉じ込めて、今から死ぬまで見つめ合えば十年後には少しは落ち着くのだろうか。いや、もっと落ち着かなくなっているんだろうな。
「2時半に東海道に呼ばれてたでしょ? 行かなくて平気?」
「あっそうでした! 行ってきます、上越先輩、山陽先輩、それじゃあ!」
この騒動ですっかり忘れていたらしく、長野は時計を見て焦る。名残惜しそうにしながらも、ぱたぱたと走って行った長野にやる気なく手を振って見送りながら、あの足じゃ俺についてこれるわけねーなあと思った。自分がどれだけ本気で走ったかは覚えていないけれど。
あ、やっと二人きりだ。そう思って隣の上越を見る。
「山陽も行ったら」
「……」
長野がいなくなった途端、上越は愛想笑いをやめた。隣にいる男なんかどうでも良さそうな目で俺を見てる。どうでもいい男って、そりゃあ言うまでもなく俺です。何だろう、この態度の落差。俺の前ではありのままの君でいてくれるんだ!とかそういう喜び方をしてもいいけれどそんなことしたら絶対痛い。というか俺はそこまで頭の悪い男になれない。
「俺は東海道に呼ばれてねーもん」
「暇なわけね」
「お前はここで何すんの」
実際この時間は忙しくない。上越の皮肉に聞こえない振りをして訊くと、上越は不愉快そうにする。
「君に関係ある?」
「そういう顔すんなよー興奮するから」
「間もなくMaxたにがわ412 号が到着致します。線路に降りてお待ちください」
「ちょ、お前それ、どういう意味…!」
線路を手のひらで示した上越の冷笑と、今すぐグチャグチャになって死ねという言葉と同義語の冷たい台詞に俺がムンクみたいに顔を歪めると、それがおかしかったのか上越は笑った。
「冗談だよ」
「だよな…」
それを心配して駆け付けた人間に、その仕打ちはいくら上越でもないと思ってたよ、と俺は胸を撫で下ろす。
「だって、人身事故起こされたら困るもん」
「いやちょっと待って、そういう問題!?」
俺の命より遅延とか損害とか遅延の方が重要なんですか、お前にとって。まあ訊くまでもなく、重要だろうな。2時間以上遅延すると払い戻しだしね。北陸新幹線が開通すれば赤字路線に転落すると言われている上越相手にそれは酷だ。
「で、君何しにここに来たんだっけ?」
時計から目線をこっちにくれたと思ったら、一番最初にした質問に戻った辺り、こいつは俺の答えを覚えていない。始めにちゃんと言ったのになあ、長野にはお礼言ってたのになあ、なんで俺は流されたのかなあ。ってどうでもいいからですね、分かってます。
「線路に落ちたって言うから心配したんだよ」
「それであんな走ってたんだ」
――お前、さっき何も言ってなかったくせに、それ…!
見られてた! 嫌だそんなの恥ずかしい、こいつどこから見てたんだ!? 俺がなんて返すべきかを迷って無言で頭をフル回転させているというのに、上越は爽やかに会話を続ける。
「ごくろうさま。無事は確認できたでしょ?」
「あんまり危険なことするなよ」
「君こそね」
全速力で疾走とか、下手をすれば乗客を事故に巻き込みかねない。上越に言い返す言葉がない、ああ、カッコ悪いなあ俺。どこから見てたんだろ、って、そんな見てもいねーんだろうけど。上越が自分に帰れと言いたげなのには、気がつかない振りをする。
「人たくさん来るし、僕、次の車掌に用事あるから残るよ。また後でね」
いよいよ本気で、いい加減帰れと言われた気がして俺はつまらない世間話を投げかけようとするのをやめた。今ここで、秋田がきりたんぽ持ってきたから後で食おうぜ、と言ったって上越には無視されるか、仕事の邪魔をするなと言われるんだろう。この歳になると諦めが良くなってしまって困る。割り切った妄想か夢の中でしか自由になれない。見返りを求めるのが辛くて、一人で相手を想うことで満足することに馴れてしまっていて。
長野のように、泣きながら上越の無事を願うこともできない。
「そうだな、邪魔して悪かった」
ちょうど上越新幹線がやって来て、音が何も聴こえなくなる。俺は上越の足元を見つめた。別れ際に言葉を掛けてもらいたい自分にはこういう離れ方の方がずっと良かった。俺は一度も振り返らずに、新幹線のホームから離れた。そうして、暗い世界に戻っていく。
――俺はちゃんと笑えてたかな、ああでもそんなの、あいつはきっと気にしていない。
ユーリはコンラッドの顔をじっと見つめて眉を寄せてしかめっ面をしている。数分前から続いているこの状況、二人の間に会話はなくただ見つめ合っている。しかしコンラッドにとってユーリが挙動不審なのは今更だった。コンラッドは問い詰めることは諦めて放って置いていたが、このままだとますます考え込み続けていそうなのでこの辺りで声を掛けることにする。
「俺の顔に何かついてます?」
コンラッドの美しい声にユーリは生き返ったように反応した。桜の花びらが舞い散っていて美しい、コンラッドの深い色の眸をユーリはじっと見つめる。
「花びら? 木の葉? それとも毛虫でも?」
――――――うん、うん、ついてるよ。きれいな目と高い鼻と…っていうかトータルで顔が良いんだよ、この男は。
そういう事情を全部分かっていて訊いているんじゃないか、ユーリは穿った目をコンラッドに向けてみる。彼の立場や普段話していて感じる聡明さから、ただの善人でないことくらい分かっている。これだけ整った容姿で地位があって賢ければ、どんな裏があってもおかしくない――そう思いながらもユーリはもともと人を疑わない気質で、コンラッドの演技の裏側を見通しているわけではなかった。もちろんそれは彼の美徳でもある。
「ははは。毛虫は、まだ早いって。あれは葉桜になってからが本番。大量発生すんだよ」
ここまでは良かった、コンラッドのジョークにユーリは笑っていれば良かったのだ。
「わ! 冷たっ!」
背中に降ってきた冷たい感触に、ユーリは思わず仰け反った。コンラッドは心配して仰け反ったユーリの手を反射的に掴む。ユーリがその手に何か思う間もなくコンラッドは手を離した。
「な、なんか背中にボタッって……。雨でも降ってきた? でも、晴れてるよな?」
ユーリはコンラッドの反応を気にせず空を見上げる。彼の言う通り空は文句のつけようもないくらい晴れている。
「あーでも、なんか背中を伝わってる……むしろこう、這ってる感じ……」
空から目線を下げて、自分の背中に感覚を集中させて、ユーリははっと気付いた。
「…這って…る…?」
これ以上考えることを脳が拒絶している。ユーリは青ざめてコンラッドに助けを請う視線を向けた。
「陛下、申し上げにくいんですが……」
聞きたくない、これ以上は何も言わなくていい。涙目のユーリの絶叫が響く。
*
「部屋ならいいって問題じゃないだろ、まったく…」
部屋に戻って風呂から上がったユーリが溜息を吐いて、傍らのコンラッドに不満を述べた。コンラッドは困った顔で笑う。
「それはグウェンダルに言ってください」
「あと、順番守ればいいとかそういう話でもない!」
「それは俺への不満ですか?」
「他に誰がいるんだよっ!」
昼間、ユーリの背中に毛虫が落ちてきて誰が服を脱がすかでヴォルフラムとギュンターが言い争ったとき、こともあろうにコンラッドは「落ち着いて、ちゃんと順番を守って」と二人を諭した。ユーリは今それを思い出してコンラッドに文句を言っているのだった。
勢いに任せてテーブルをげんこつで叩いて主張したユーリに、コンラッドは距離を詰める。
「陛下」
「な、なんだよ…」
「お手を」
真顔のコンラッドに間近で顔を見つめられてユーリはすっかり委縮する。今日の昼間に改めて気付いたコンラッドの顔立ちは見つめれば見つめるほど端整で、目を見ることができない。コンラッドはそんなユーリを意に介さず、手を取ってじっと見つめた。
「良かった」
「なにが?」
「いえ、何でもありません」
コンラッドはにっこりとほほ笑む。彼が自分の身体を気遣っていることなど気にも留めていないユーリは、きょとんとして首を傾げる。
心配をさせるな、とコンラッドは口にしない。それは彼が、ユーリが何をしても自分は心配をしてしまうこと、心配しないことは不可能だと知っているからなのだろう。
「コンラッドってたまによく分からない…」
ユーリが頭を掻きながら言う。さっきも順番を守って、とか言うし。あの状況でなんであんな言葉が出てくるんだ。
「そんなことを言われたのは初めてです」
コンラッドは笑顔を見せた。ユーリはそれを、貴族に真正面からそんなこと言う奴なんかいないからかな、と単純に考える。大体自分より頭の良さそうな人間に、お前のことはよく分からないという言葉を投げかけられるか?いや、そんなことできるわけがないとユーリは自問自答した。
「俺からすれば、陛下の方がよっぽど」
コンラッドにすれば、さっきはあれほど文句を言っていたのに今は自分の前で頬を染めているユーリが不思議でならない。自分にこんな風に思ったことを思ったまま言う人間に出会えたのも、ユーリが初めてだった。
「俺? 俺は単純だと思うけど」
だから分かりやすいと思う。ユーリは反射的にそう答えてから、はっと気付いてコンラッドを見上げた。
「…単純すぎて分からないってことか!?」
「そんな、まさか」
昼間のことですっかりコンラッド不信になっているユーリを見て、コンラッドはおかしそうに笑った。
このまえの仏日と交換で行間のひとが書いてくれた英日
二人で誕生日建国記念日祝ったよ。
12日(休日)はバレンタインチョコの売上ピークらしい。
フランスやベルギーのチョコって日本で大人気だ…といいつつわたしはダースを食べるよ。
白いダースおいしいYO!Mりなが良い仕事する。
(http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090131/trd0901311450007-n1.htm)
>日本チョコレート・ココア協会(東京都)によると、バレンタイン期間の推定販売額は平成に入り500億円を超え
500億円の市場規模~
>プランタン銀座(東京都)がメールマガジンの女性会員2万人を対象に実施したアンケートによると、本命チョコは昨年より275円上がり3325円。自分用チョコは469円増の3167円、義理チョコは143円高い1172円で、調査を始めて以来最高値を記録した。
本命≧マイチョコ 三千円ちょっと>>(越えられない壁)>>義理チョコ 千円ちょっと
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今日はkzeちゃんと二人でランドセル展示会に。
今のランドセルってなんてカラフル…!!水色とか黄色とかオレンジとか。相場3万円。去年のモデルなら1万円で買える。天使のランドセルとかあった。
kzeちゃんがわたしたちの頃は5万くらいしたと言っていた。うん、あの頃ランドセルは高級品だった…3万だって高いけども。
「あー今日さむーい」
「おい、上越、お前…!」
制服に着替えて出社した上越に東海道は詰め寄った。きょとんとして上越は、胸倉を掴まれたまま抵抗せずに東海道を見る。
「おはよ、東海道。なに?」
「これはいったいどういうつもりだ?」
背後のデスクを指差して上越を睨み付ける。東海道の肩越しに上越はひょいと自分のデスクを覗いた。
「あ」
机の上に積まれた小さな箱の山、誰かが積み木遊びをしていたのではないかと目を疑いたくなる。それくらい完璧にタワーが出来上がっている。上越は苦笑いで自分の机の上を見た。今まで何人が届けに来たのかは分からないが、東海道がそのうち何人かの相手をしただろうことは想像に難くない。
「あー…片づけた方がいい?」
「当たり前だ!」
「じゃあ、手ぇ離して…」
「失礼します、上越さまにお荷物をお届けしました!」
ノックの後に入ってきたのは郵便局員。上越はさっと東海道の手を振り払うと、ドアを開けた郵便局員のところへ行って印鑑を押した。局員が段ボールを上越のデスクまで運ぶと、上越は笑顔で礼を言った。
「ありがとう」
「失礼します!」
顔を真っ赤にした郵便局員を見送って上越は手を振る、東海道は増えた荷物と局員の反応に、その背後で憤っていた。
バタン。
「上越っ!!」
「はいはい、分かってますー片付ければいいんでしょ」
上越はデスクの上を仕事のできる状態にしようと、机の中から段ボールを出して郵便局員が運んできた段ボールの上に重ねると、チョコレートをしまいだした。
「そういうことを言ってるんじゃない、これはいったいどういうことだ?」
「……チョコでしょ」
上越は、いったん手を止めて、なんともいえない小馬鹿にした眼差しを東海道に向けた。今日が何日だと思っているんだ、と呆れかえっている。
ただいまー、と戻ってきた秋田と東北が、二人を遠巻きにしてソファに座った。
「今日14日だよ、大丈夫? 君の家、カレンダーある? 今度手帳買ってあげようか」
「それくらい俺だって分かってる! なんでお前にこんなに大量のチョコが送られてきているんだ、去年の倍だろう」
東海道は何も載っていない自分のデスクをばんばん叩いて主張した。それを見て上越が腕を組む。確かに言われてみれば、午前10時のこの時点で去年の倍は贈られてきている。この1年で急激に女性人気を獲得するような何かがあったわけでもない。
分からないことを考えるのはやめにして、上越は溜息を吐いて凶悪な笑みを浮かべる。秋田はその微笑みにぞっとしながら見ない振りを続けていた。
「なんだ、やきもち?」
その見下したものの言い方に東海道は声にならない怒りを覚えたらしく、肩を震わせる。
「上越お前っ…!」
「え、否定しないの」
からかっていただけの上越が目を丸くすると、東海道は顔を真っ赤にした。
「上越」
「なに?」
上越に声を掛けたのは東北で、秋田はぎょっとして東北を見る。どうして安全なところにいたのに竜巻に突入していくのか、秋田には理解できない。地味なくせに東北は案外トラブルメーカーだと秋田は睨んでいる。
東北は上越を手招きした。上越が東北に近寄って行く。放って置かれた東海道は気の毒に、何も言い返せないまま呆然と上越を見つめている。
「なに」
「口開けて」
「ん」
そう言ったくせに上越が口を開ける前に、東北は持っていた小箱を開けて口にオレンジのチョコがけを1枚くわえさせてやって、親指についたチョコを舐める。普段淡白な人間がするいやらしい仕草に秋田は、二人で部屋に戻ってきたことを激しく後悔した。なんで自分まで赤面しなければならないのだ、巻き込まれていい迷惑だと思ってしまう。東北の仕草はそれくらい色気があった。東海道はひたすら絶句している。
「おいしい! どうしたの、これ」
「さっきもらったんだ。お前、逆チョコ欲しいって在来の誰かに言わなかったか」
「ああ、言ったかも」
上越は美味しそうにチョコを食べている。
↓
「あーチョコ食べたい。買おうかな」
NEWDAYSで上越が仕事の合間に甘いものを物色していると、東海道ジュニアが通りがかりに上越を見つけた。周りに誰もいないことを確認した後、店に入ってくる。
「どうしたんですか、上越さん」
「あっジュニア。や、ね、チョコ買おうかと思ってね」
「どれが欲しいんですか?」
チョコと同じ目線まで屈んで真剣に悩んでいた上越が可愛いのか、ジュニアは幸せそうな笑顔を浮かべて上越を見つめている。チョコレート一枚で真剣に悩むこの人は子どもみたいだとジュニアは思う。
「明治の復刻版…やっぱり赤が可愛いよね?」
黒色、茶色のパッケージを素通りして赤とにらめっこをしている上越に、ジュニアは胸が高鳴るのを堪えた。
「あ、赤は誰かさんの色だね」
良いことを思いついたように上越はジュニアを見上げて、これ以上ないくらい可愛らしい笑顔を浮かべた。
(かわいいかわいいかわいいかわいいかわいい)
何度念じても可愛さは減らない。ジュニアは心臓を打ち抜かれたくらいの衝撃を受けて胸を押さえながら、上越の手から明治の板チョコレートを奪った。
「プレゼントします」
「え、なんで。いいよ!」
立場を弁えて遠慮する上越に(もしこの場に東海道がいれば、珍しい!と声を上げただろう)、ジュニアは、いいから、と制してレジに持って行く。
「どうぞ」
店を出てからチョコを渡すと、上越は嬉しそうに受け取った。
「ありがと! ジュニアはいいこだ」
「いえ、今、逆チョコも流行ってますし……」
「ああ、逆チョコねー。女の子がもらいたがってるってアンケート出してたね。うちももっと乗客にアンケートを徹底する必要があると思うんだよね…」
と、仕事の話をしてしまった上越は、ジュニアが黙り込んだのに気付いてすぐ話をやめる。
「ごめんごめん。ありがと、これ逆チョコ?」
「……えっ」
「あれ、違うの」
上越は何も考えていなさそうに、違うのかーあはは、今日13日だしねえと言って笑い飛ばしてしまう。ジュニアは何をどう言えばいいのか分からなくなってきて上越の前で言葉を探した。
「あの」
「ん?」
「上越さんは、その…」
「なーに?」
「逆チョコもらったら、受け取る、ん、です…か…」
決死の覚悟を決めたジュニアの質問に、上越は、腕を組んで考える。
「そだね、5000円以上のチョコだったらもらってもいいかも」
サディスティックな言い方に、ジュニアは不覚にもどきりとしていた。いらないよ、そんなの悪いもんと優しい笑顔で言われるより価値がある。上越のような人間は、彼と接することができる人間にとてつもない優越感をもたらすのだ。そのブランドイメージとも言うべき彼の品質を保持するには、贈るチョコレートは5000円以上でなければいけない、それは寧ろ指摘される以前からの常識に思えてジュニアは納得していた。そんな彼らのやり取りを通りすがりに見た他の同僚たちも。
↓
上越は何気なく言っただけだったのだが、その言葉はJR駅構内を掛け巡り、さらに路線を伝って今や日本最北端まで到達した―――その結果が、上越の机上の現況である。
「欲しいとは言ってないけど、5000円以上ならって」
「え、じゃあれ全部5000円以上なの!?」
秋田が甘いものへの食いつきを見せて、今までの我関せずの姿勢を覆して上越を追及する。
「えー? うん、確かに、PIERRE MARCOLINIとかJean-Paul HEVINとかDEL REYとか結構高いの多いなって思ってた…」
適当に箱にしまっているだけかと思いきや目ざとい、きちんとブランドはチェックしていたらしい。秋田はその上越の目ざとさに感心していて、すっかり置いてけぼりになっている東海道のことを思い出す余裕もない。
「なに一人サロン・デュ・ショコラやってんのよ!羨ましい!」
「あはは、秋田も食べる?」
「いいの!?」
確かに高級パティシエのチョコレートがデスク上に所狭しと積まれているのだから、サロン・デュ・ショコラ状態だ。1月末に伊勢丹で行われた今年で7回目になるチョコレートの祭典。本家パリでは10月に、120人ものショコラティエが参加し、ファッションショーのような華やかな催しを開いた。フランスのショコラを中心に、ベルギーやスイス、アメリカやイギリス、ドイツのブランドもあったのだが、残念ながら日本ではドイツの店は出展していない。
と、ドアがノックされる。
「おーす何してんの?」
チョコレートと思われる段ボールを肩に担いで仕事から戻ってきた山陽に、一同は視線を集中させる。デスクの脇に段ボール箱を下ろして、集合用のテーブルにやってきた山陽に、秋田は話しかける。
「山陽も逆チョコ?」
「は? 京都停まったときにチョコもらっただけよ」
―――そうだった……!!
と冷静に気付いたのは秋田だけだ、日本のバレンタインデーは本来、女性から男性にチョコレートを渡すものだ。推定200個以上の逆チョコが贈られてきた上越のせいで、すっかり逆チョコが主流だと思わされていた。
「おー大量だな。誰の?」
「…僕のだよ」
「あーじょうえっちゃんの! モテモテだね」
上越の顔に怒りが滲んでいたのは言うまでもない。男性ばかりの社内で女性からチョコレートをもらうこと自体が珍しいという変えようのない事実が事態をややこしくしている。日頃から京女と交流のある山陽は特別だった。
「どうすんの、それ全部お返しすんの?」
「山陽、僕に破産させる気?」
「冗談だってー。あ、東海道。なに固まってんだ、そんなとこで」
すっかり存在感をなくしていた東海道に山陽が声を掛ける。東海道は黙ってテーブルに着く。今まで黙っていた東海道のことをやっと秋田は思い出した。そういえばさっきから一言も口をきいていない、どうしたんだろうと不思議に思う。最初はあんなに上越のチョコレートを迷惑がっていたのに。
東海道はテーブルの上のティーカップを見つめたまま、上越と目を合わさずに言った。
「あのな、お前」
「うん?」
「一人で食べろよ、ちゃんと。誰かにあげたりしちゃ、だめだぞ」
上越は一瞬黙りこんで、東海道をじっと見つめる。それから目を逸らした、それは、分かりあうことを諦めたように見えた。秋田は改めて自分がこの場に居合わせるべきではなかったことに気付いて、誰かとこの思いを共有したくて東北を見る。当然、東北は自分がもらったらしいオレンジピールを食べていて何も気にしていない。山陽は複雑そうに二人を見ていた。秋田と目が合うと、山陽は申し訳なさそうにした。
上越は何も言わなかった。うつむいたまま、東海道の言葉に、承諾も拒絶もしなかった。
世界で一番上越さま
ちゃんと見ててよね 振替に行っちゃうよ?
ふいに抱きしめられた 急に そんな えっ?
「轢いちゃう 危ないよ」 そう言ってアクセル踏むキミ
…こっちのが轢いちゃうわよ
アクセルは語呂が悪いらしい。
「誕生日おめでとう」
ドアを開けるとそこにいたのはフランスで、日本は眉ひとつ動かさずに戸を閉める。
「お祝いのお言葉ありがとうございました、ではこれで」
「ちょ、待てよおい! そんな冷たくされたらお兄さん泣いちゃうよ!」
「それでわたしに何か影響があるのでしょうか」
戸口でぎゃあぎゃあフランスは喚く。引き戸を壊しかねない勢いで、どんどん戸を叩くフランスを相手に、日本はカラカラと戸を引いて、自分の発言を一瞬で撤回した。
「泣かれても困りませんが、戸を壊されては困りますね。影響を見つけました」
やっと姿を見せた日本に、フランスは安堵する。日本はフランスに手を差し出した。
「なに?」
「誕生日を祝ってくれにいらしたのでしょう? 受け取りますよ」
一分一秒も無駄にせずに自分とのやりとりを終わらせたがっている日本の前で、フランスは深く溜息を吐く。イギリスの前では慎み深く、アメリカの前では従順な日本が、自分の前では常に貪欲だ。これでは愛情のやり取りには程遠い。
もっとも、イギリスやアメリカの見習う価値のない食やセンスから作り出されるものを受け取ってもしかたないだろう、それに比べれば自分は、とフランスは都合良く解釈する。与えることを拒んではいけない。欲する者には与える、これこそ恋愛の基本中の基本だ。
「もちろん。喜んでもらえるといいんだけど」
「あ、ワインじゃないですか」
ラッピングされたワインボトルを後ろから出すと、日本はぱっと顔を輝かせた。さっきまで、休日をぶち壊しにされたと顔に書いた仏頂面で、厄介払いをしようとしているのが目に見えていたのにこの変わり身の早さ。これこそが日本が国際社会で生き残ってきた最たる理由であると言ってもいい。
日本はワインを受け取って上機嫌な顔を見せる。
「昔からうちでは大人気なんです、あなたのところのワインはね」
「だろ? まだまだイタリアやチリには負けないぜ」
「ええ。高く売れます」
少年のように無邪気ににっこり笑って言った日本の言葉に、フランスは驚愕した。
「ええー!? 売るなよ!!」
「冗談に決まってるじゃないですか、そんなもったいないことしません」
くすくす笑って日本は戸を開けた。
「どうぞ」
やっと自分を招き入れてくれたものの、フランスとて日本の言う「冗談」には半信半疑だ。自分のプレゼントしたワインは熟成に耐える、包装を解いた日本が今すぐではなく数年後、このワインにさらに価値が付いたときに売り払おうとしたらどうしてやろうか、とフランスは考えていた。この老獪は、本音と建前をおそろしくきっちり分けているところが本当に恐ろしい。イギリスやアメリカほど安易に日本を信頼できないフランスは、注意深く日本を観察する。
「嬉しいです、ワインはね」
「冷たいなァ、ワインだけ?」
部屋に通されるとすぐに日本茶と和菓子が出てきた。湯呑を受け取ってフランスが問い詰めると、日本は笑ってこたつの向かい側に入る。
「ああ、料理も。わたしには少し、重いのです、が――」
こたつの中でフランスは自慢の長い足を伸ばして、日本の膝と膝の間に指を割り込ませようとした。日本は笑顔に怒りを滲ませて、言いかけた言葉を一旦切る。
「何のつもりですか」
「料理やワインじゃなくて、俺を味わってもらおうかと」
「その心は?」
目的次第では受け入れてくれるのだろうか、そんな気さらさらないくせに。そういう日本の本心は分かっていた。まずは条件を聞き出そうとする、日本の外交的狡さの前で次の言葉を必死で考えている自分は、日本の本心を本当は分かっていないのかもしれないと思う。いや、分かっていて期待している。愛とは人の心を変えることなのだから。ただ互いにありのままの姿で寄り添うだけでは、恋愛は成立しないのだ。
「目指せ、日仏同盟締結」
ぎゅう、と足をつねられて、ぎゃあ!と悲鳴を上げてフランスは自陣に撤退した。そんな彼を、日本は熱いお茶をすすりながら涼しい顔で見つめ返す。
「いってー」
「冗談もほどほどにしてください。うちは今、不景気でお金なんかないんです」
「そんな、金目当てって決めつけるなよ」
フランスは両手をこたつに入れて、こたつの上に頭をこてんとのせて項垂れた。取りつく島もないとはこのことだ、相変わらず日本はつれない。だからこそ構いたくなってしまう。思い通りにならないものを思い通りにしたい、こればっかりはどうにもできない人間本来の欲望だ。
「だいたいあなた、そんなにわたしに興味を持っているわけではないでしょう」
「えっ何言ってんの!?興味あるよ!」
「1858年10月9日」
日本は去年150周年を迎えた、その日付を暗誦する。フランスはすぐにぴんときて、和菓子を咀嚼しながら日本の言葉の続きを待つ。
「日仏修好通商条約が結ばれた日です。アメリカ、オランダ、ロシア、イギリスの後に」
「ああ、あれは完全に出遅れた」
「5番目です。あの頃から、あなたはわたしに興味がない」
目を伏せて自嘲気味に呟く、日本の声を自分は美しいと思っている。そして、自分も自分の心を映し出す言葉を返したいと。けれどフランスは、波打ち際に上げられた人魚のように、自分の声など日本には届いていないのだと気付いていた。
日本にとっての屈辱を、寵愛と受け取ることで彼は歴史を皮肉っている。ならば侵略国家でしかなかった自分たちに、これから先できることは何なのだろう―――そう考えてきたからこそ、国際社会での協力体制を作ってきた。国際社会での日本の地位はそれなりに評価されつつある。国連への出資額がアメリカの22%に次いで19%、この数字を見て日本を軽んじるのはなかなかに難しい。それなのにいつもアメリカの影に隠れて、その力を発揮しないのは自分の方だろう、と思わなくもない。
「そんなことは、ないけど……」
「それに、今はそれどころではないでしょう。経済対策はお済みですか?」
MEDEF(フランス企業運動)は短期的に、有期雇用契約の延長停止、労働時間の短縮と休職・休暇の取得を進めている。長期的には従業員の教育訓練を施すことによって、エンプロイヤビリティーを向上させる狙いだ。日本もそれは知っているはずだった。
教師に叱られた子どものように、フランスは口を尖らせる。
「やってるよ、それなりに」
「頼もしいですね」
「なあ、そんなにアメリカがいいの?」
焦れたフランスの問い掛けに、日本は和菓子を頬張って目を丸くした。その表情から、フランスは日本の真意が読めない。カマをかけただけのつもりだった、日本はそれに乗る振りをする。
「そうですね、欧州よりはマシかもしれません。欧州委員会の課徴金にはどれだけ困らされたことか」
「それは俺に言われてもねー……」
「使えませんね」
優しい声に刺すような視線。美しい花のように、赤い唇でやわらかく毒を吐く。フランスは適当に投げかけているだけの会話を終わらせるための言葉を考えた。
欧州委員会の独占禁止法違反の課徴金といえば、マイクロソフト社が有名だ。07年には一度和解したものの、半年後また調査が入っていた。結局のところマイクロソフトの技術が喉から手が出るほど欲しい。日本企業の例で言えば、カルテルをよく警告されている。好景気ならまだしも、この不景気に、課徴金の支払は相当の痛手になっているだろう。
「――……全部、止めてやろうか」
フランスは日本をじっと見つめた。こたつに入ったままでは台詞が決まらない。口説く場所を間違えたかな、とフランスは言った傍から後悔する。日本は、笑うだけだった。
「メリットなんか、ないでしょう?」
「そうだな」
「変な人ですね」
―――こっちが本気になった途端、愛情を拒絶する奴のために、俺に戦う勇気はない。